*まことに申し訳ございませんが、本日の祈祷会の聖書の学びは録画できませんでした。
 今回に限り、映像なしで、聖書の学びのレジメを共有いたします。
 祈祷会に出席できない方々が同じ聖書に触れ、祈りを合わせることを願っております。


マルコによる福音書12128

 

1:1「神の子イエス・キリストの福音の初め。」

この福音書の題であり、主題でもあります。そして、このイエス・キリストの福音は、まだ終わっていません。これは弟子たちを通して、その後の無数のキリスト者を通して受け継がれ、続けられています。

11415「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて…」

イエスさまの福音を宣べ伝えることが始められ、イエスさまの本格的な活動がここから描かれていきます。1115がこの福音書の序論になります。

11620

四人の漁師(シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ)を弟子にします。この人たちはイエスさまの呼びかけにすぐ答えて従います。シモンとアンデレはやっていた仕事を下し、ヤコブとヨハネは家族を残して、イエスさまに従います。アブラハムが最初に神様の呼びかけを聞いていた時の御言葉のようです。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」

 

12128

・イエスさまは弟子たちと共にカファルナウムの会堂に入ってお教えになりました。マルコによる福音書は、他の福音書と比べて、教えの内容の記録は少ないが、教えるお方であることははっきり伝えています。

22節「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」

イエスさまが何方なのかが、教えを聞いていた人たちによって言われています。ここでは「律法学者より権威ある教えをされるお方」ということです。律法学者というのは、彼らが今まで頼っていた神の言葉の出口(?)でしたが、これからは全然違う、神の子を通して深い真理が伝えられることを意味します。

しかし、この認識は、限界があります。律法学者に比べられる存在、つまり、ただの律法の先生として認識していることだとも言えるからです。

23節「汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。」

この汚れた霊に取りつかれた男が叫んだ言葉は、イエスさまの教えを聞いて驚いていた人たちの認識より正しいものでした。「神の聖者」と。人々によってではなく、悪霊によってイエスさまの来られた秘密が知らされました。これは神様のお働きや神の子について、メシアについての人の無知を意味します。

27節:この出来事を見ていた人たちは「権威ある新しい教えだ。汚れた霊が言うことを聴く」と驚きます。22節の驚き方と違います。人々の認識が、律法学者に比べるレベルから、霊的なレベルまで広がります。

24節「我々を滅ぼしに来たのか」:イエスさまの来られた目的の一つが示されます。汚れた霊というのは、人を汚れる存在にする霊のことを意味します。つまり、神様と人を引き離す存在です。イエスさまは人々を神様に導き、近づかせるメシアとしてこの世に遣わされたことが分かります。

 

主を信じる者はこのイエスキリストを通した恵みを受けた者です。イエスキリストによって神様といつも共に歩める者とされた恵みです。この恵みに感謝し、共に祈りたいと思います。