日本基督教団 我孫子教会

我孫子教会の礼拝や、色々なお知らせをいたします

次週礼拝予告

5月24日、復活節第7主日(昇天主日)礼拝順序と説教

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう。

復活節第7主日(昇天主日)礼拝順序


           

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編46112

     讃美p.51  (単独p.55)

讃美歌    337

聖 書  列王記下2115

          (旧p.577

ヨハネによる福音書73239

           (p.179)

  祷 

使徒信条 

讃美歌  54 

説 教 「主は天に昇られた」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   475        

献 金     

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

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説教
列王記下2115
ヨハネ73237
「主は天に昇られた」

共に読んだ32節で主はこう言われます。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」この言葉は、皆さんがよくご存じのように、主の昇天を意味します。

主は復活された後、天に昇られました。しかし、せっかく復活されたのにこのままずっと人々と共にいたらそれでいいのではないでしょうか。目に見えない方より目に見える方を信じるのが人間にはより信じやすいから、イエスさまが天に昇られなかった方がより効果的ではなかったのかなと、疑問を持つのもあり得ることでしょう。

確かに弱い人間には目に見えたほうが信じやすいでしょう。しかし、イエスさまが天に昇られたということから、その目に見えるのが全部ではないことを、真理の道は目に見えないところにあることを、私たちは教えられているようです。

 

私たちは、使徒信条を用いて、私たちの信仰を告白しています。その中、わたしたちはイエスキリストについての私たちの信仰を確かめます。使徒信条には、「天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり」という言葉があります。イエスさまは父なる神さまがおられる天というところにお帰りになったということです。

 

この天というところとはどういうところでしょう。今日の聖書箇所の34節には、イエスさまが帰られるところを人々は見つけられない、来ることもできないと記されています。しかし、37節を見ると、イエスさまは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と言われます。これは全然違うことを同時に言われているのではないでしょうか。

 

まあ。。当時には、イエスさまが天に昇られる前ですからイエスさまのおられるところに行くことができたとしても、今の私たちはどうですか。天に昇られて、その天というところには来ることができないとおっしゃっていますから、今のわたしたちはイエスさまに行くことができないということですか。今の人々は、どれだけ飢え渇いてもイエスさまのところに行くことができないから、その人は救われることができないのですか。

いいえ、決してそうではありません。

まず、天に来ることができないのは、この天を、イエスさまのおられるところを一種類の目に見える場所として理解しているからです。天というのは、空という物理的な空間ではありません。もっと上にある宇宙のどこかでもありません。信仰の先祖たちが神さまを「天におられる」と表現したのは、どこにいても頭の上にある空のように、神さまがおられないところがないことを心から覚えて、そういう神さまを表現していたからです。繰り返しますと、わたしたちがどこにいても空の下にいるように、わたしたちがどこにいても神さまの下にいるという意味します。

 

だから表現を少し変えて、分かりやすくすると、こうなります。

神さまが天におられるのではなく、神さまのおられるところが天であると。

ですからイエスさまは、復活の後、天という未知のとある場所に帰ったのではなく、父なる神さまと共におられるということでしょう。ですからイエスさまが天に昇られて、イエスさまを信じる者は、むしろ、イエスさまに会うことがより簡単になったのです。

 

神さまは目に見えない、そして、イエスさまも天に昇られ、目には見えないようになりました。しかし、神さまがおられるところ、イエスさまがおられるところが天というところであったら、今、礼拝をしているここが天でありますでしょう。

主は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ1820)とおっしゃいました。主の名によって集まるところ、主を求めている信じる者らのところが、天であることです。

 

ですから、渇いている人がイエスさまのところに行くのも可能なわけです。

魂が飢え渇き、イエスさまじゃないと救われられない時、共におられる主を信じているなら、主はその人がいるところを、天にしておられるでしょう。

 

3839節では、そういう人々に、流れ出る生きた水、即ち、聖霊を約束してくださいました。その聖霊は命の水です。人を生かす水です。飢え渇いたものの喉を潤す命の水です。それがその人のところから溢れ出て、周りの人々にも命の道に導くのでしょう。

 

愛する信徒の皆様。

イエスさまは復活の後、弟子たちに「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。聖霊が私たちを天で生きる者、主と共に生きる者、主とつながっている者としてくださるでしょう。主は天に昇られました。私たちも主と共に天を生きる者たちになるのはどうでしょうか。

 

詩編236

「命のある限り・恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り・生涯、そこにとどまるであろう」

5月17日、復活節第6主日礼拝順序と説教

【お知らせ】
5月3日礼拝後に行われた役員会によって、コロナウイルス感染拡大による教会の今の体制を1か月伸ばし、6月末日までにすることが決議されました。しかし、早い段階でこのコロナの危機が収束されるなら、元の体制にすぐ戻すことを前提としています。教会員の皆様のご理解、ご協力をお願いいたします。このコロナウイルスが一刻も早く収束されますよう、そして、教会員の皆様がどこにいるとしても主が共におられ、信仰と生活と健康を守ってくださるよう、共に祈りたいと思います。

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。
教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう、お願いいたします。


復活節第6主日礼拝順序

 前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編8110

     讃美p.10  (単独p.14)

讃美歌    333

聖 書  出エジプト記33711

          (旧p.149

ヨハネによる福音書162533

           (p.201)

  祷 

使徒信条 

讃美歌  55 

説 教 「あなたはひとりではない」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   495        

献 金  

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

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説教

聖書個所:旧約 出エジプト33711

     新約 ヨハネ162533
説教題:「あなたはひとりではない」

2526節:「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたは私の名によって願うことになる。私があなたがたのために父に願ってあげよう、とは言わない。」

 

 

「その日には、あなたがたは私の名によって願うことになる。」私たちはもはやここに言われている「その日」という日を生きています。主イエスの名によって、わたしたちは祈っているからです。そして、その祈りは、主が聞いてくださると、わたしたちは信じています。

26節に説明されているように、主の名によって祈ることとは、主がメッセンジャーになってわたしたちの願いを父なる神さまに伝えてくださるということではありません。主の名によって祈るとき、神さまはその祈りを通して私たちと直接交わりをお持ちになるという意味です。

 

 

ところで、主の名によって祈るというのはどういうことでしょうか。

ただどういう願いでも、最後に「主の名によって祈ります。」という言葉を付ければいいということでしょうか。決してそうではありません。「主の名によって祈る」というのは、いろいろな話ができると思いますが、主の名に属している者の祈りではないかなと思われます。

27節】これができるのは、「父ご自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである。」と書いてある通りです。すなわち、(ヨハネ3:16のように)神さまが私たちを愛してくださり、その独り子をお与えになり、その救いの御業によって、また、私たちがその独り子を信じているからであるということです。

 

この主を信じることとは、私たちが世のものではなく、主のものになることを意味します。すなわち、世と神さまが全く違うように、わたしたちも以前とは全く違うものになったことを意味します。たとえ私たちの生活の中にまだ世のものとしてのこと、罪を犯してしまったり、主の御心に相応しくない姿が見えてしまったとしても、この事実は変わりません。主は、主のものとして相応しく、私たちを作りゆくことに違いありません。その主の導きに応えつつ、従いつつどんどん聖化していくのがクリスチャンの私たちです。

ですから、以前とは違う者は、以前とは違う祈りをする者になるのでしょう。すなわち、主の名によって祈るようになるというのは、主の者に変えられた者の祈り、その変えられた存在に相応しい祈りをうることです。

 

 

それでは、以前の祈りと、この変えられた祈りの違いは何でしょうか。それは、方向性にありますでしょう。今日のみ言葉の25節から、主はこう言われました。「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には。。。」以前の祈りが私たち自身の願いが中心になり、それを主に願うことだとしたら、この新しくされた者の祈りは、主の御心を聞くこと、父なる神さまのこころを知っていくことです。すなわち、自分中心から神さまに向かう一方的な方向性ではなく、主に聞く方向性、さらに、主と交わりを持つ両方の方向性を持つことです。

 

 

共に読んだモーセの話には、「主は、人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」と書いてあります。神さまと友のような交わりを持つこと。これが私たち、新しいいのちを得た者らの祈り方であります。

 

主を信じて、聖霊に満たされ、主に聞き、主の御心に相応しく生きる人生を、主は弟子たちに、そして私たちに約束してくださったのであります。救われた者の生き方とは、他のところでもなく、この交わりを通して主に頼りつつ生きる生き方でございます。

 

 

主は、今日の聖書個所の最後に、また、弟子たちの苦難を預言されました。この苦難は、主のものとして生きる人に来る苦難でしょう。(32)主が人々に捨てられ、裏切られて覚えたその孤独の中、イエスさまは神さまとの交わりの中で雄々しく主の御心に従うことができました。そのように、主は私たちに、主のものとして世の中を生きる時に訪れてくる孤独の時、疲れてしまう時、決して一人ではないことを、主が共におられることを忘れてはいけないとおっしゃっているようです。私たちは祈りをもって友なる主と共に歩む者らだと、おっしゃっているようです。

 

そうです。わたしたちは、独りではありません。

マタイ11:28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

愛する信徒の皆様。主に頼り、主に聞き、主に従う者、新しいいのちに相応しいものとして、今週も共に歩みましょう。

5月10日、復活節第5主日礼拝順序と説教

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう、お願いいたします。

2020年5月10日
復活節第5主日礼拝順序

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編10615

     讃美p.117  (単独p.121)

讃美歌    325

聖 書  エゼキエル書362428

          (旧p.1356

ヨハネによる福音書151827

           (p.199)

  祷           

使徒信条 

讃美歌  342 

説 教 「主に選ばれた証人」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   506        

献 金     

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏



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20200510我孫子教会説教

ヨハネ15:18~27

「主に選ばれた証人」

 

今日の聖書個所は、こう始まっています。

「世があなたがたを憎むなら」

ここで「あなたがた」とは主に従う者たちを指します。(154)ブドウの木につながっている枝のような、主の内にとどまっている者たちです。なお、1510節に記されている「わたしの戒めを守る者」たちです。「(17)互いに愛し合いなさい」という戒めを守る者たちです。

 

しかし、そういう人々は、世に憎まれるとおっしゃいました。

キリスト者としてよくやっている者たちが、人々に憎まれることとはいったいどういうことでしょうか。

 

ペトロも、パウロも、他の使徒たちも、主に従っていた素晴らしいキリスト者たちが、結局、殉教の道を歩むのを、わたしたちは十分に知っています。ペトロや使徒たちの後にも、大勢のキリスト者の道は、まさに今日のみ言葉通りです。

 

現代を生きるわたしたちも、ただクリスチャンという理由だけで、憎まれ、いじめられたという話は、まわりから沢山聞くことができます。

 

信仰者として生きるのに、理由もなき、憎まれ、迫害も受け、沢山苦労をして、行きたくないところに行って殺されるとはどういうことでしょうか。主に従うことはむしろ世から褒められるべきではないでしょうか。しかし、主は、これが自然なことだとおっしゃっています。昔々からみ言葉で預言されたとても当然なことだということです。(25)

 

主はおっしゃいます。「そういう時には、世に憎まれる時には、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」

実は、この憎しみは、主が先に受けたものでした。

 

だから大丈夫です。その主の名のゆえに受ける憎しみは、わたしたちが主にちゃんと従っていることに違いないからです。主が、主ご自身が受けた苦難を私たちに少しでも受けらせるほど、私たちの信仰が成長しているということだからです。

 

聖書は、キリスト者の苦難について無数に語っています。そして、そこには、必ず、喜びなさいという勧告がございます。(ローマ書5:312:12、一ペトロ4:13、コロサイ1:24

 

苦難の中で喜びが伴われるのは、わたしたちにはその苦難だけではなく、主から受けている慰めと喜びがあるからです。わたしたちが「世があなたがたを憎む」という言葉に戸惑うようになるのは、世からの憎しみだけを思うからです。そして、世から褒められ、世からうらやましがられることを望む私たちの弱さがあるからです。

キリストにも属して、世にも属したがる私たちがあるからです。

 

しかし、愛する信徒の皆様。

私たちは、主が選び出した者たちです。エゼキエル36:24のように、主がこの世から取って導き出した者たちです。エジプトから出て、もはや主のもとで住まいを決めたのに、エジプトの奴隷の時代を恋しがるイスラエルの人々ではありません。

 

わたしたちは、主を憎む者たちに属していなく、主を愛する者たちに属しています。

これを忘れてはいけません。

 

2627節)そして、わたしたちは、伝えるべきです。

聖霊に満たされ、証人にならないといけません。

主が受けて、使徒たちが受けて、私たちも受けているこの憎しみが、主を知らない人々のためだったら(21節)、その人々のために伝えなければなりません。主の愛を知らない人々が一人も滅びないで、永遠の命を得るように。

 

それは、弱いわたしたちの言葉と知恵だけではできないです。ただただ祈り、主に委ねつつ、聖霊に満たされ、キリスト者としての人生を生き抜くことによってできることです。主と共に歩む幸せなわたしたちの毎日を通して、主から受けている愛を通して、できることです。

 

愛する信徒の皆様。わたしたちは、主に選ばれた証人です。

この旨に相応しく、これからの一週間も主と共に進んでまいりましょう。

 

5月3日、復活節第4主日礼拝の順序と説教の要旨

新型コロナウイルス感染拡大防止のための記事です。
教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨を見ながら、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう、お願いいたします。

2020年5月3日
復活節第4主日礼拝順序


           

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編118112

     讃美p.129  (単独p.133)

讃美歌    358

聖 書  イザヤ書6215

          (旧p.1163

ヨハネによる福音書211525

           (p.211)

  祷           

使徒信条 

讃美歌  323 

説 教 「心は一つ、使命も一つ」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   458        

役員任職式 

献 金

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

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20200503我孫子教会説教

旧約 イザヤ6215

新約 ヨハネ211525

説教題:「心は一つ、使命も一つ」

 

主は、食事の後、ペトロにお聞きになりました。

「わたしを愛しているか?」

この質問は、わたしたちの心の中に大きい響きをもたらします。主からこの質問を受けたら、皆さんはどう答えますでしょうか。

 

ペトロは、「わたしが愛することを、あなたがご存じです。」と答えました。

ヨハネ133638(ペトロの離反の予告)に書かれているペトロの言い方とは全く違います。「あなたのためなら命を捨てます!」とはっきり言っているこの高言とはまったく違うのです。

 

でも、ペトロの心は、おそらく、13章のところも、今の21章のところも主を愛するこころは変わらなかったと思います。しかし、彼は自信がなくなったでしょうか、「主がご存じです。」と言いながら、はっきり答えられなかったです。

こころは変わらなくても、実際にそのこころについていけない自分があるのを分かったからでしょう。(マルコ14:38マタイ26:413度目の質問をうけて、悲しくなったのもこの故でしょう。人間という存在は、このように、簡単ではありません。

 

「あなたはわたしを愛しているか。」

わたしたちは、みな、主を愛するこころは一つでしょう。迷うわたしたちを招き、愛してくださった主の御心を、わたしたちは十分に経験しているからです。迷うわたしたちを主の子として受け入れてくださった方が主だからです。

 

このように、主を愛するこころは確かなのに、わたしたちは、弱いです。今日の聖書個所のペトロのように弱くて誘惑に陥ってしまう罪深い者であることを否定はできません。

 

しかし、主は、知っておられます。そういう私たちを分かってくださいます。

「主がご存じでしょう」というペトロの言葉は、事実です。主は、ペトロが離反するのも知っておられましたが、ペトロの主を愛するこころが変わっていないこともご存じでした。

 

イエスさまは、ペトロの心を十分に知っておられましたが、ペトロにわざわざお聞きになり、彼の自らの口で告白させます。彼の弱さによって、三度も離反したから、三度も言わせたかもしれません。この告白によって、離反の時の罪を乗り越えて、その根本にある弱さを乗り越えて、再び、立ち上がらせるために。

 

わたしたちも、毎回の礼拝の中で、私たちの信仰を告白します。主が下さった信仰なので主はわたしたちの信仰を十分に知っておられますが、また、その信仰を主は私たちに言わせます。私たちは、私たちの信じる信仰を、愛するこころを告白することによって、主との関係を確かめます。わたしたちが、ただの罪びとに過ぎない存在ではないことをまた確かめるのです。

 

 

主は、ペトロのこころを確かめた後、使命を与えてくださいました。

「わたしの羊を飼いなさい。」

この使命はただの命令ではありません。愛の確認の後のみ言葉ですから、これは、この愛の表現として読むべきです。主に向かう愛を表現する方法、それは、私たちに与えられた主の羊を飼うこと、世話をすること、即ち、愛することです。主は、「この人たち」以上に主を愛するその愛をもって、「この人たち」を愛しなさいとおっしゃったのです。(15節)

 

これがわたしたちに与えられた使命です。愛することによって、愛することです。

 

心は一つです。主に対するこころは、「愛」その一つです。

従って、与えられた使命も一つです。「愛すること」です。

 

 

私たちは、大変な時期を過ごしています。

今までの生活とはまったく違う時です。

しかし、こういう時期でも、することは一つでしょう。

主を愛し、主の人々を愛することです。

互いに仕えあうことです。

 

時には、弱い私たちの姿が出てきても、聖霊を求めつつ、主に委ねつつ、一歩一歩踏み出してまいりましょう。

 

4月26日、復活節第3主日礼拝の順序と説教の要旨

新型コロナウイルス感染拡大防止のための記事です。
教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨を見ながら、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう、お願いいたします。

2020年4月26日
復活節第3主日礼拝順序

       

           

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編14519

     讃美p.158  (単独p.162)

讃美歌    208

聖 書  イザヤ書6113

          (旧p.1162

ヨハネによる福音書21114

           (p.211)

  祷           

使徒信条 

讃美歌  390 

説 教 「主だ」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   509        

献 金  

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

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説教の要旨

説教題:「主だ」
 

弟子たちは復活されたイエスさまの話も聞いていたし、直接会ってきた人もいましたが、イエスさまの復活を実感するにはいまいちだったかもしれません。なおさら、何をどうすればいいかも分からなかったと思います。騒がしい心をどうしようもなく、ただただ、今までやってきた昔の仕事をするしかなかったのでしょう。

 

弟子たちは、イエスさまに出会って、弟子になって、自分のやっていたことを捨ててイエスさまに従ってきた人たちです。しかし、今は一度捨てたことをまたやっている弟子たちです。イエスさまが復活されて現れたのに、なんでここで以前のことをまたやり始めたでしょうか。

私たちは「わたしは漁に行く」という言葉から、弟子たちの迷っているこころを読むことができます。

 

「イエスさまが復活された。」

この事実は本当に喜ぶべきことであるはずですが、当時の弟子たちには、この事実が喜ぶばかりのことではなかったようです。弟子たちには、イエスさまを裏切った人もいたし、怖くて逃げてしまったことがあるから、分からないことでもないです。

 

彼らはもうこれ以上、主と共にすることはできないと思っていたかもしれません。自分の過ちで落ち込んで、故郷に戻って昔の仕事をしている弟子たちです。

弟子たちは、主が復活されたことを目撃した者たちでしたが、まだ、彼らのこころは、空っぽのまま、迷っているだけでした。彼らが夜明けまで漁をしても満たせなかったあの網のようです。

 

4~6節】彼らの迷っているこころは、彼らに話をかけている方が何方かも分からないようにしました。しかし、イエスさまは、「船の右側に網を打ちなさい」と言われました。それに従った弟子たちは、夜明けまで満たせなかった彼らの網が、いっぱいになることを経験したのです。

 

確かに、この方は、主イエスキリストでした。主が迷っている彼らに来られたのです。

イエスさまが彼らに来られ、彼らの空っぽのこころは、魚でいっぱいになった網のように、満たされていたことに違いありません。こういうふうに自分たちを満たしてくださる方はイエスさましかいないと、気づいたのでしょう。

 

ペテロは「主だ」という声を聞いた途端、湖に飛び込んで、泳いでイエスさまの方に向かいました。「いっぱいになった網なんかが問題じゃない。自分の以前の罪が問題じゃない。今すぐ主に会わなきゃいけない。とにかく主の近くに行かないと。」と思いながら泳いでいたかもしれません。

 

私たちは、迷う心を持ち、毎日を過ごしています。たまには、愚かで罪を犯してしまう自分が情けなくて、失望するときもあります。主の前に出るのが怖い時もあるのが率直な私たちの姿であります。しかし、主がいるところにまっすぐに向かうことができる勇気は、そこで待っておられる方が、主イエスキリストだからこそではありませんか。罪で怒られるから怖いから逃げてしまうのではなく、どうせ自分は情けないから諦めて離れるのではなく、少し離れてしまったとしても、主にまっすぐに直進して、主と共にしようとすることができるのは、そこに主イエスキリストが待っておられるからです。

 

空っぽの私たちを、満たしてくださる方が主イエスキリストだからです。

迷ってしまう私たちの、行くべきところである方が、主イエスキリストだからです。

 

弟子たちがイエスさまのおられる所に来ると、主は自ら魚とパンの朝の食事を用意しておられました。弟子たちが持ってきた魚も一緒に焼いて、弟子たちと共に食事をしました。

この食事は、彼らの疲れた体を癒す食事であり、主の顔をどう見ればいいか分からない彼らを、慰める食事でありました。

主はこういうふうに、つまづいて、座り込んでいた彼らを立ち上がらせました。そして、彼らが明日を生きるようにしました。聖霊を受けて、今度こそ真に主に従う人にするためでした。

 

愛する信徒の皆さま。

主は、時には迷ってしまう私たちに、「来たれ」と招き、待っておられます。

時には、あわただしい世のことで、疲れてしまって、祈ることも、賛美することも、礼拝することも疲れてしまう私たちに、「来たれ」と招き、待っておられます。

そこに待っておられるのは、愛の豊かな主イエスキリストです。

 

 

 

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