日本基督教団 我孫子教会

我孫子教会の礼拝や、色々なお知らせをいたします

次週礼拝予告

2020年8月2日平和聖日礼拝

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。コロナ禍の中、教会に来れない方々のため、礼拝実況をYouTubeで配信始めます。この礼拝順序とYouTubeライブ映像を通して、それぞれの場所で、共に礼拝を捧げますようお願いいたします。

次のリンクをクリックすると、礼拝実況の動画ページが開かれます。。



平和聖日礼拝

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編68111

     讃美p.71  (単独p.75)

讃美歌    17

聖 書  列王記上17816

            (旧p.561

    ヨハネによる福音書62227

           (p.175)

  祷 

使徒信条 93-4 A)賛美歌のp.146

讃美歌  510

説 教 「命の糧」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   561        

献 金   

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏


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7月26日聖霊降臨節第9主日礼拝順序と説教

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所で、共に礼拝を捧げますようお願いいたします。

聖霊降臨節第9主日礼拝

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編5419

     讃美p.58  (単独p.62)

讃美歌    204

聖 書  イザヤ書43113

            (旧p.1130

    ヨハネによる福音書61621

           (p.174)

  祷 

使徒信条 93-4 A)賛美歌のp.146

讃美歌  390

説 教 「わたしだ。恐れることはない。」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   448        

献 金    

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

  後 奏

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聖書個所:約 イザヤ42:113

     新約 ヨハネ61621

説教題:「わたしだ。恐れることはない。」

 

弟子たちはティベリアス湖を渡ってカファルナウムに行かねばならなかったです。このティベリアス湖というのはガリラヤ湖のティベリアス地方の方を指します。すなわち、ティベリアス地方からカファルナウムまでガリラヤ湖を渡って行くことです。今日の聖書箇所はこの途中の出来事について語っています。

 

今日の聖書箇所の直前のところでは、即ちティベリアス地方では、有名な五つのパンと二匹の魚の奇跡が起こります。人々は五つのパンと二匹の魚をもって無数の人々を食べさせた主を目撃しました。しかし、人々はこの奇跡の本当の意味を分かることができなかったです。人々は、ただ目の前で起こった食べ物の奇跡に夢中になりました。人々はこういう素晴らしい奇跡を起こすイエスさまを無理やりに自分たちの王にしようとしました。この群衆たちにイエスさまはただ自分たちの欲望を叶えてくれる魔法使いに見えたのでしょうか。彼らにイエスさまが本当にどなたなのか見えなかったのです。

 

また、今日の聖書箇所の次にはカファルナウムに舞台が変わります。そこでイエスさまは奇跡の意味、奇跡が示していること、即ちイエスさまのこと、天から降ってこられた真の命のパンであるイエスさまについての話がつづきます。5000人以上が経験した奇跡ですが、その奇跡が示していた意味が語られる舞台でございます。

 

人々がただ自分の欲望だけを求めていた舞台から、イエスさまの本当のことが語られる新しい舞台への旅路が今日の聖書箇所でございます。

 

 

ガリラヤ湖はすごく大きい湖です。今も、長さが20キロメトル、幅が10キロメトルを超える湖です。イエスさまの時代には今より大きい湖だったそうです。そういう広い湖を夜中に漕いで渡らないといけなかったのです。しかしまだイエスさまは共におられなかったです。夜中で、さらに嵐が来ている状態ですが、弟子たちは出発をしました。

 

彼らは一所懸命、一所懸命、漕いで船を動かせました。そうしている最中、嵐が彼らを襲いました。嵐が襲っても目標は変わりませんでした。つらくても、死にそうでも、頑張って頑張って、ろを漕ぎました。弟子たちはきっと怖かったでしょう。夜中、嵐の真ん中での恐怖は言うまでもないと思います。それどころか、遠いところから幽霊みたいな何かが見えて、自分たちに近づいていました。彼らは大変な恐怖に囲まれていたでしょう。

 

そういたところ、イエスさまが水の上を歩いて彼らのいるところに来られました。イエスさまは恐れている弟子たちに「わたした。恐れることはない」とおっしゃいました。そして弟子たちは船にイエスさまを迎え入れようとしました。そこで突然、話は終わります。

 

弟子たちが4キロメトルほど、頑張ってきた時間は、それはどれだけ長くてつらい時間だったでしょう。目標まではまだまだ半分も至っていない、嵐は沈める気配もない、。。彼らの4キロメトルがどれだけ長かったのか想像できます。

 

しかし、不思議なことです。イエスさまが彼らにこられたとき、そして彼らがイエス様を迎え入れようとした瞬間、「まもなく」船は目的地にたどり着きました。

 

突然、話は終わってしまいました。瞬間移動とかの奇跡の話ではありません。この話のほとんどはイエス様が彼らと共におられる前、弟子たちの苦しんでいた話になっています。しかし、最後の一節で話は終わってしまいます。イエスさまが彼らに来られた後の時間は、イエスさまが来る前の時間とは全く違う流れになったからです。

 

皆さんは恋人と一緒にいるとき、それとも、友達と楽しい時を過ごすと、時間が早すぎるよなと思われた時があるでしょう。逆に、つらい時の時間はなんと長いか言うまでもないです。

 

イエスさまが弟子たちに来られた時、時間は、まるで、恋人と一緒にいる一時のように、友達との楽しい時のように、イエスさまのいなかった苦しい時間とは全く違うように、流れ始まめたのです。イエスさまと共にいることとはこういうことです。

 

私たちの人生も同じでしょう。イエスさまと共に歩まない人生とイエスさまと共に歩む人生は根本的に違います。怖い時、つらい時に、イエスさまが私たちに話をかけてくださることを想像してみましょう。「わたしだ」というイエス様の声がどれほど救いになるかは言うまでもないでしょう。

 

今日の聖書箇所ではイエスさまが来られて嵐を叱ったり沈めたり、弟子に水の上を歩かせたりはしません。イエスさまが弟子たちの所に来られても彼らはまだ嵐の中でした。目的地はまだ半分以上残っています。しかし、変わったのはイエスさまと共に嵐の中にいるということです。それで、今までの旅路は変わり、イエスさまと共にする旅路になります。

 

神さまを信じるようになったとしても、突然お金持ちになったり、毎日奇跡が起こったりはしません。人生の思い煩いがなくなるのもないです。しかし、その人生は、表に見える状況は、同じようでも、その真実と意味は全く違うものになります。

 

最初はイエスさまのために頑張ろうと思って、一所懸命頑張ってきたのに、とある瞬間、自分は一人で頑張っているような孤独を感じてしまい、いやになるときも私たちにはあります。他方、世の中を生きるのにとてもとても怖い時も私たちに訪ねてくる時があります。イエスさまが本当に共におられるかどうか分からなくなる時も多いのが率直なことです。しかし確かなことは、その嵐の中でも、「わたしだ。恐れることはない」と、共に行こうとおっしゃる主がおられることです。

 

我々はそういうイエスさまを受け入れ、全く新しい人生のスタートラインに立ち、それから、イエスさまと共に一歩一歩、歩んでいます。

 

弟子たちが「間もなく」目的地にたどり着いたように、嵐の中でもイエスさまとの楽しい旅路になったように、主が共におられるなら、世の中の苦しみの中でも憩いのみぎわも青草の野原もあり、間もなく目的地に着いたと思うほどの幸福があります。

 

愛する信徒の皆さま、私たちはイエスと共に歩む人々でございます。この最高の幸福をいつも味わう人々でありたいと願い、感謝して共に祈りましょう。

7月19日聖霊降臨節第7主日礼拝順序と説教

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所で、共に礼拝を捧げますようお願いいたします。

聖霊降臨節第8主日礼拝

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編96713

     讃美p.106  (単独p.110)

讃美歌    155

聖 書  ミカ書7:1220

            (旧p.1458

      使徒言行録241021

           (p.262)

  祷 

使徒信条 93-4 A)賛美歌のp.146

讃美歌  482

説 教 「復活の時」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   471        

献 金     橋詰貴美子

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

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ミカ71220

使徒24:1021

説教題「復活の時」

今日のパウロはフェリクスというエルサレムの総督の前で裁判を受けています。パウロは自分のことを弁論していますが、それはイエスキリストについて、そして復活についての証言、証でありました。

パウロがこの裁判所に立っているは、彼を殺そうとするユダヤ人たちがエルサレムに入った彼を訴えたからでした。パウロがローマの市民権を持っていなかったら今総督の前に立つことすらできず殺されたでしょうが、彼はローマの市民権を持っていたため、総督の前で自分を弁論することができ、なにより今、総督の前でイエスキリストと復活について、即ち、福音を宣べ伝えていることになりました。死ぬ危機が世界に福音を宣べ伝える機会になったのはなんと素晴らしい神様のお働きでしょう。

 

ところで、この場面は、イエス様の裁判を思い出させます。罪のないのに、群衆騒動と神冒涜のことでユダヤ人によって訴えられ、殺される危機に遭ってしまったことがとても似ているからです。先週の礼拝で、弟子(キリスト者)という者はイエス様の歩んだ道に従って歩む者であると説教いたしました。その道は人々を生き返らせる者たちだと申し上げました。今日のパウロもそうでした。今日の聖書個所はイエスさまの最後の苦難の道を彼が同じように歩んでいる場面だと言えますでしょう。その故、彼は総督の目の前で、福音を、永遠の命を宣べ伝えることができました。

 

パウロはイスラエルに入る直前、カイサリアで預言者アガボに出会い、彼の預言を聞きます。【(使徒21:1011幾日(いくにち)か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。そして、わたしたちのところに来て、パウロの(おび)を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」】パウロがエルサレムに入ったら捕まってしまい、殺されるという預言でした。この内容はそこにいたすべての信者たちが予想していたことであり、人々はエルサレムに行かないように、パウロに泣きながら頼みました。苦難を控えたいと思うのは人間の普通の反応だと思われます。しかし、何故彼は自分がイエスさまでもないのに、苦難の道を選んだのでしょうか。今日の聖書個所以外にも、パウロは無数の危機に遭いがら伝道していきました。どれ一つ簡単な道はなかったのです。パウロは何故、自分がイエス様でもないのにこういう道を歩んできたのでしょうか。それは、その苦難の道に神の御心があったからです。イエスさまがその道を先に歩んだからです。そこに神の御心があるからです。

 

それどころか、彼が苦難の道を選んだのは、今楽に暮らすことより苦難の道を喜んで受け入れたのは、今の苦難を喜んで受け入れられる永遠の喜びと希望を見ていたからです。それは復活の希望でございます。パウロはその復活を、見つめながらイエス様の後をついていきました。そして、共に復活という希望を見あげながら一緒にイエスキリストの道を歩もうと宣べ伝えてきたのです。

 

繰り返しますが、イエスの道に従っていくのがキリスト者という者の道であると申し上げました。しかし、この道が決して簡単ではございません。聖書の中のイエス様の教えや弟子たちの人生などをよく読んでみてください。イエス様を従うことがどれほど難しい苦難の道であるかすぐわかるでしょう。わたしたちもキリスト者であれば、今日の聖書個所のパウロのように普通の人間としては考えられない道を選ばなければならない時が来るのです。そして、損しながら、自分が頑張ってきて手に入れたと思う者を手放さなければならない時が来るのです。

 

しかしパウロはこう言います。

【(フィリピ379)しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失(そんしつ)と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切(いっさい)を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを(ちり)あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。】

 

パルロはローマの市民権があり、エリートの教育を受け、社会的にいわゆる成功の道を歩むことができる人でした。しかし彼はそれをすべて塵あくたとして見なしていると言います。イエス様を知ること、(した)しくなること、共に歩むこと、そうして復活の希望を抱いて生きることが、何より良いことで、楽しいことであると分かっているからです。だから彼はその苦難の道をしのびつつ、いや喜びつつ歩むことができたのでしょう。

 

私たちも弟子なら、苦難の道を歩むようになるかもしれません。しかし、恐れる必要はありません。主イエスはおっしゃいました。【(マタイ11:2830)疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和(にゅうわ)謙遜(けんそん)な者だから、わたしの(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」】主の道を歩むとき、そのくびきが私たちの目にはとても重く見えても、そのくびきは負いやすく、荷は軽くなります。何故なら主が共にそのくびきと重荷を負ってくださるからです。パウロも、ペトロも、2000年にわたった他の無数の弟子たちも、苦難の道に見えるが、実は軽くて喜び満ちた道を歩んでいました。

 

今どきの世の中は、生きていることだけで、つらい時だと言われています。しかし、天に国籍を持って主と共に歩むキリスト者の道は、自分も聖化されつつ、人々を、そしてこの世を変えていく道です。主がご自身の人々を通してお働きになるからです。だから主の中にとどまりましょう。主の道に従ってまいりましょう。苦難の道に見えてもその道は主と共に働く喜びが、そしてその先には復活の永遠の命があるのです。

6月28日聖霊降臨節第5主日礼拝順序と説教

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますようお願いいたします。

聖霊降臨節第5主日礼拝

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編84113

     讃美p.93  (単独p.97)

讃美歌    16

聖 書  出エジプト24111

            (旧p.134

    ヘブライ人への手紙121829

           (p.418)

  祷 

使徒信条 

讃美歌  218 

説 教 「天のエルサレム」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   542        

献 金    

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

-----------

聖書箇所:旧約 出エジプト24:1-11

     新約 ヘブライ12:18-29

説教題:「天のエルサレム」

 

今日の旧訳のみ言葉は、みんなが神さまの前で共に飲み食いする食事の場面です。

彼らは神さまの民として、神さまは彼らの神として、神さまの前で共に食卓を囲んで食べるのが許されたのです。「主は、この食卓で彼らに手を伸ばされなかった」と書いてあります。彼らの罪によって神さまの前で死ななかったという意味です。なぜなら、彼らが神さまの民であったからです。神さまがそう決めたからです。彼らがどれだけ足りない人間であっても、どれだけ愚かな罪人であっても、主は、彼らを自分の民として受け入れてくださいました。そして、彼らを招き、同じところで神様を見ながら飲み食いすることができるようにしてくださいました。

 

今朝共に読んだヘブライ人への手紙には、「天のエルサレム」という言葉が出てきます。神さまは今日の聖書個所を通して、私たちに、この旧約の場面も勝ることのできない「天のエルサレム」つまり「天国」に、もはや近づいていると言っています。

 

 

皆さま、クリスチャンという者たちををどういう者たちだと言えるでしょうか。

色々と言えると思いますが、私たちは、一つの食卓を囲んでいる者たちだと言いたいです。

 

私たちの主であるイエスキリストはとても食事(一つの食卓を囲むこと)を大事にしていました。

まず、イエスさまに対する人々の言葉に「食べること」が入っています。

(ルカ7:34)見ろ、大食漢(たいしょくかん)で大酒みだ。徴税人や罪人の仲間だ』イエスさま、そうとう食べ物好きでしたでしょうかね?これは食べること飲むことが好きだったというより、罪人と一緒に食卓を囲んでいたということでしょう。

 

イエスさまは、いつも食事の場にいらっしゃいました。

イエスさまを裏切って、心が痛くなって、苦しんでいたペテロの前に、復活なさったイエスさまが現れた時、主は、魚とパンを焼いてペテロを待っていました。食事を共にして彼らを再び立ち上がらせるためでした。

 

聖餐を制定する時も、過ぎ越しの食事のところでした。

 

イエスさまは、いつも罪人のところに訪ねて、彼らと共に同じ食卓で食べながら、彼らを悔い改めさせ、神の子としました。ルカ19章に出るザアカイという人とイエスさまの物語が良い一例になるでしょう。【5節「ザアカイ、急いで 降りて來なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」】

 

ご飯というのは生命・いのちの象徴です。食卓とはこのいのちを頂く所だといえるでしょう。

 

イエスさまは、ご自身のことをパン、食べ物に例えました。

自分を「生きたパン」だと言っています。。【ヨハネ6:4850わたしは命のパンである。/あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。/しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。】

 

パンというのは命を象徴します。パンは、生き続けるためにもっとも大事なもの、つまり命そのものでありました。だから主の祈りにパンの祈りが入っているのです。自分の命は神様から与えられているものであることを信じている者の祈りだといえるのです。

 

古代の人たちは、どういう食卓に着き、どういうものを食べているかが、その人の正体・身分・その人が誰であるかを示されました。

さきほど、食卓とはこのいのちを頂く所だと申し上げました。神さまから毎日の必要な糧(いのち)を頂く人は、神さまと一緒に食卓を囲む者であるのです。神さまの食卓で毎日の糧を頂くもの、神さまに属するものであります。神さまに生かされる者であります。

 

イエスさまが罪人と共に食卓を囲んだのは、その罪人が空しい世の食卓で命のないパンを頂く者から、イエスさまという命のパンを頂く神さまの食卓に着く者に変わるように臨んだ主の招きで他ならないのです。

 

パン、つまり、食べ物というのは、もともとは命があったものです。人間は自分の命を維持するために、ほかの命を無にして自分の命にする存在です。

イエスさまがこの世に来られて、自分をパンだと例えたのは、イエスさまご自身の命を私たちの命にしてくださるからです。イエスさまご自身を食べなさいとおっしゃったのは、主の命によって私たちが生きるようになるからです。イエス様はご自身の命をなくして、私たちがまことの命を得るように、神さまと共に食卓を囲む者になるように、してくださったのです。クリスチャンという人はそういう者たちです。

 

主イエスキリストは、命のパン、自分を信じるものを神さまの民として活かすパンでございます。

私たちは、主イエスキリスト、この生きたパンを同じ食卓を囲んで食べる者たちです。主イエスキリストという命のパンによって生きる者たちです。

 

だから世が決めた食卓に着くことが人生の目的の全部になって他人を落としたり傷をつけても自分だけがその食卓に着けばいいということはありません。愛せなくなったり、赦せないこともありません。永遠な目的をもって主と共に飲み食いしながら笑いながら歩むことができるのです。

 

主は今朝、こういう食卓に、その永遠の食卓に、わたしたちを招いておられます。

 

ヨハネの320

見よ、わたしは戸口(とぐち)に立って、たたいている。だれかわたしのを聞いて()を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

6月21日聖霊降臨節第4主日礼拝順序と説教

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう。

聖霊降臨節第4主日礼拝

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編16711

     讃美p.16  (単独p.20)

讃美歌    343

聖 書  ハバクク214

            (旧p.1465

ヨハネの手紙一22229

           (p.443)

  祷 

使徒信条 

讃美歌  60 

説 教 「御子の内にとどまりなさい」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   403        

献 金   

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

説教

ハバクク2:14

1ヨハネ2:2229

「御子の内にとどまりなさい」

 

 

今朝、私たちはヨハネの手紙の一部分を共に読みました。この手紙の内容は、残っている者たちのために書かれた手紙です。1ヨハネ219節を読んでみると、ヨハネの共同体(教会)を離れた人々がいたことを分かることができます。

 

彼らは何故離れたでしょうか。詳しくには分かりませんが、この手紙が書かれていた時代には教会に対するひどい迫害があったことは確かだと言われています。ですから、キリスト者として当時を普通に生きることはできないことだったでしょう。

 

迫害の理由もいろいろあったと言われています。政治的では、ローマ皇帝を神として、また主として仕えないことで国家的暴力が続いていたのです。これはイエスさまの十字架の上に書かれた罪状書きと同じでしょう。「死刑に処された政治犯に従う人々」ということだったでしょう。また、ユダヤ人による迫害もイエスさまの時代から、ずっと続いていたことでした。それどころか、一般社会の中で、クリスチャンについてのおかしい噂も広がりました。人の血と肉を食べる者らだとか、テロリストの集団だとか。。なのでクリスチャンの一般の生活が普通の回ることはできなかったでしょう。

 

しかし、当時のクリスチャンたちは、自分が社会的に危ない存在でないことを証明したり、自分たちが受けている迫害や差別が不当なことであると訴えたりすることすらできなかったです。彼らは少数だったし社会的弱者だったので、何か悪いことが起きたら彼らを利用しやすい存在だったからです。ローマの放火事件はキリスト者の仕業だと罪をこすりつけた事件がちょうどいい例であります。

 

そういう時代でしたので、信仰の弱い人々がつまずき、共同体を離れることは簡単に予想できるでしょう。人間は弱い存在です。それによって、共同体の中には相当な揺れがつづいていたのも予想できます。

 

こういうふうに、彼らは共同体の内外で大きな脅威に苦しめられる状況でした。理由はただ、イエスを主として、救い主として信じ、従っていたからです。この脅威はキリスト者たちを神さまから、イエスキリストから引き離そうとする巨大な脅威でした。今日の聖書個所に出てくる言葉の中、「反キリスト」という言葉が出てきます。「反キリスト」というのはこういう脅威をキリスト者に行うことを意味します。

 

聖書の中には、「サタン」や「悪魔」などの言葉もよくでてきます。この言葉から皆さんはどういうイメージを浮かべますでしょうか。怖い鬼や鬼神などの存在をイメージしますか。映画エクソシストに出てくる幽霊的な存在をイメージしますか。私たちがこういう言葉を見た時に思うべきことは、「私たちをキリストから引き離そうとする実質的な脅威」に他ならないです。今日の聖書を書いたヨハネも、この手紙を読んでいる当時のキリスト者たちも、この脅威を肌で感じていたでしょう。

 

当時の人々に比べて、今の日本で生きている私たちはすこしよくなっているかもしれません。せめて信じることだけで殺されたりはしないですから。しかし、ちゃんと覚えなければならないことは、キリストを信じることだけで殺される事が今も世界のどこかには起こっていること、また、私たちをキリストから切り離そうとする脅威が消えたわけではないことです。

 

今の日本で生きているわたしたちにも、ヨハネの共同体が抱えていた脅威は、違う形をもってより賢くなって残っているのです。「われらの真の国籍は世にあるものでなく、天にある」「私たちは主に属するものであり、世の中で主のものに相応しく生きるべき」というのは、最近の我孫子教会礼拝の大きい主題(流れ)ですが、皆さんもよくご存じのように、こういうことは決して簡単なこと、やさしいことではありません。あえて例えを用いなくても、ここにいる皆さんの経験を通してよくわかることでしょう。

 

しかし、わたしたちの内には主から受けた喜びがあります。主を最初に出会ったその驚くべき記憶があります。主と共に歩みながら聖化の経験があります。み言葉の甘さを私たちは知っています。世の原理でなく主に従った時の良さも、主から褒められる感動の記憶もちゃんと私たちの中にはあるのです。情けなく罪だらけの私たちでさえ、絶えず待ってくださり、差し伸べてくださった愛を取り入れることもしない主をよく知っています。だから私たちはこれからもクリスチャンとして生きることができます。主の愛によって生かされる喜びの証が私たちにはあるからです。

 

主から離れないためにわたしたちには、信仰の成長といえますでしょうか、聖化していくことが必要です。世のどういう誘惑にも自分のどういう罪にも揺らぐことなく主に従うためには、そのためには今日の聖書個所の27節の最後のところのヨハネの勧告のように、「御子の内にとどまること」が必要です。

 

御子の内にとどまることとは、御子の心をもって生きることに違いないでしょう。自分の心を主の心にして、自分の目を主の目にして、自分の周りの人々に臨むことではないでしょうか。主の目で自分を見て、主の目で他人を見るときこそ、わたしたちは揺らぐことなく、惑わされることなく正しい方向に歩むことができるでしょう。

 

愛する信徒の皆様。

御子の内に共にとどまるのが最高の幸福であることを覚え、揺らぐことなく聖霊に満たされつつ、どうどうとこの世をキリスト者として共に歩みましょう。聖霊が導いてくださいます。

 

 

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