日本基督教団 我孫子教会

我孫子教会の礼拝や、色々なお知らせをいたします

トップ

6月14日の礼拝順序と説教

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう。

聖霊降臨節第3主日礼拝

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編29111

     讃美p.30  (単独p.34)

讃美歌    351

聖 書  申命記61725

          (旧p.291

ローマの信徒への手紙10517

           (p.288)

  祷 

使徒信条 

讃美歌  56 

説 教 「信じる者の裏表」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   522        

献 金     藤田和子

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏
-----------

説教

申命記6:17~25

ローマの信徒への手紙10:517

 

律法を守ることでなく、「信じることで救われる」

この言葉を私たちはクリスチャンとしてよく聞いています。この言葉は私たちにとって真理であり、絶対に忘れてはいけない言葉です。

ところで、今日の旧約聖書の中、モーセは律法をちゃんと守りなさいとイスラエルの人々に訴えています。「信じることによって救われる」という言葉とは違う話だなと思われやすい言葉です。

 

しかし、今日の申命記の言葉をよく読んでみると、「守ると救われる」と言ってはいません。「よく守ると…常に幸いに生きるようにしてくださる(21節)」と書いてあるのです。彼らに救いはもはや与えられているものでした。エジプトの奴隷でなく、まことの自由人として、また神の民として生きるように神さまは彼らをエジプトから救ってくださいました。奴隷という身分から神の民という身分に彼らは変えられたのです。

人々はこの「幸いに生きること」という言葉が「救い」という言葉と紛れてしまいがちですが、これは、神の民としてふさわしく生きるようになることを意味します。神さまの掟と戒めをちゃんと守ると、神さまは、神の民という身分に相応しく彼らを作ってくださるという意味です。「あなたたちはまだ「神の民」という名前だけだが、これからは名前だけでなく、その名に相応しい者に作ってあげる」と神さまは自分の民におっしゃっているのです。

 

イスラエルの民族の救いは、律法をよく守ったから与えられたご褒美みたいなものではありません。彼らの救いは百パーセント神の愛と恵みによることでした。そして荒れ野の生活も、カナンでの生活もすべて神の愛と恵みでした。しかし彼らはそれをよく分からなかったようです。

 

モーセの時から、その以前、創造の時から、人間は神さまの恵みによって生かされてきたのが真実ですが、モーセ以降のイスラエルの人々はそれを忘れてしまったのです。主の民として相応しく生きるための規範であった律法が、いつの間にか救いの基準だとイスラエルの人々は思い込んでしまったのです。前後が逆になったのです。だから人々は自分の努力で救われたと思い込んで、ますます傲慢になって、律法を自分より守っていない人を見下ろしたり、自分が人の救いを裁いてしまうことまで行ってしまったのです。イエスさまの当時のファリサイ派の人々や祭司長たちが、イエスさまのことを理解できなく十字架につけたのはこういう理由に違いないでしょう。

 

パウロの時代もそうでした。ローマ5;67のみ言葉がそういう意味です。「誰が天国に行けるのか、だれが地獄に行くのか」、こういうふうに人々を何らかの努力の度合いで(行いで)判断して裁いてしまったら、それは神さまの救いの御業を、イエスさまの犠牲と復活を無駄にしてしまうことであると、パウロは言うのです。人間は自分の救いについて何の功もないことをはっきり覚えていなければなりません。

 

そうです。パウロの言う通り、私たちは主の恵みによって救われました。わたしたちは信仰が与えられ、キリストの苦難と死と復活はもはや他人事でなくなり、その信仰によって救われた者らです。私たちの昔の身分はなくなり、新しい人になりました。主の愛によって主と固くつながっている人々になったのです。

 

しかし、身分が変わったこと、世の奴隷でなく、神の子という身分をもったことに留まるのはいけません。イスラエルの人たちは奴隷の状態から救われたことで終わりでなく、それから荒れ野を通して約束の地に入って主の民らしく子子孫孫生きることが残っていたのように、私たちも信じること、それで終わりではありません。

 

これから始まるのです。信仰者、キリスト者、神の子としての新しい人生がこれから始まるのです。身分と実体が一致するキリスト者の完全に向かってこれから走るのです。

 

 

パウロは今日の聖書個所で二つを言っています。

心で信じること、口で公に言い表すことがそれです。

心で信じることとは、主の復活を信じて今も生きておられる主を受け入れることです。なお、わたしたちが主の恵みによって救われた者であることを完全に受け入れることを言います。自分が以前の身分とは全く違う身分の人になったことを覚え、受け入れることです。救いの確信を持つことです。

 

口で公に言い表すこととは、わたしたちが救われたものとして実際に生き抜くことを意味します。すなわちキリスト者として愛することです。常にいただいている主の愛を伝えることです。自分の欲望に従うのでなく、主に従うことです。自分の希望が主の希望と一致することです。キリスト者という名前だけじゃなく、主の恵みによってその名に相応しいものに変えられていくことを人々に見せることです。

 

私たち一人一人のすべてが、救われた喜びに満ちて救われたものとしてこの世を生きようとするとき、主は必ず私たちを御心に相応しく作ってくださるでしょう。

主の福音、良い知らせが、そういう私たちを通して、私たちのいるところどころに、また、地の果てまで伝わることを信じ、共に祈りたいと思います。

6月7日三位一体主日礼拝順序と説教

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう。

三位一体主日礼拝

 前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編373040

     讃美p.41  (単独p.45)

讃美歌    223

聖 書  申命記2915

          (旧p.327

使徒言行録11426

           (p.214)

  祷 

使徒信条 

讃美歌  454 

説 教 「いつも一緒にいた」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   521        

献 金    

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏
-----------

説教題「いつも一緒にいた」

申命記2915

使徒言行録11426

今日の聖書個所は、イエスさまの昇天とペンテコステの出来事の間に置かれています。聖霊が降り、弟子たちは真の使徒となり、聖霊に導かれて地の果てまで教会教会が建てられる前に、今日の出来事は必要だったからでしょう。

 

何故12番目の弟子が必要だったのでしょうか。それはイスカリオテのユダの罪によって傷ついたこの共同体に癒しと回復が必要だったからでしょう。これから聖霊が降り、前に力強く進むために、この共同体が抱えている傷は回復される必要があったと思われます。彼ら一人一人が復活されたイエスさまに出会って自分の罪を赦され、傷を癒されたことのように、この共同体にもそれが必要だったのです。

 

新しい12番目の使徒を選ぶために、彼らは基準を立てました。その基準とは、立派な外見でも、賢い頭でも、お金でもなく、「いつも一緒にいた者」でした。主が洗礼を受ける時から復活されて昇天されるまで(主と、またそこの人々と)一緒にいた者が基準でした。この基準だけを満たした人の中で、祈りとクジ引きを通して、つまり主に委ねて選ぶ形をとりました。

 

先ほど、共同体を癒し回復するために、新たに人を選ぶ必要があったと申し上げました。教会という共同体も、そういう時があります。そういう時、私たちはこう考えるでしょう。今回は優秀なものがいいなとか、若くて力持ちがいいなとか、イケメンだったら、賢い人だったら伝道にいいでしょうとか。。。しかし、聖霊が弟子たちの共同体に教えてくださった基準というのは「いつも一緒にいた者」、それだけでした。

 

この「いつも一緒にいた者」という言葉の意味は何でしょう。「いつも一緒にいた者」のマティアのことを想像してみましょう。彼がいつも一緒にいたのは何故でしょうか。その答えは簡単でしょう。主が大好きだからです。同じように、皆さんは、何故ここに座っているでしょうか。イエスさまが大好きだから、神さまを愛しているから、共に礼拝するのが嬉しいからでしょう。マティアも同じだったと思われます。「いつも」主を愛し、「いつも」主と一緒にいたいと思っていたからです。「いつも一緒にいた者」これがなにより最も重要な基準であるのは主を愛する心をもって、愛していつも一緒にいること、この状態が何より重要であるからです。

 

この「いつも一緒にいた者」というのは、これから一緒にする予定という未来形でも、これまで一緒にいたという過去形でもなく、ずっといつも一緒にいる状態を意味します。ずっとずっと一緒にいる人、ずっと主が大好きで、いつも共におられる主を喜ぶ者。これが「いつも一緒にいた者」の意味でしょう。

 

イスラエルの人々を神さまは出エジプトから連れ出して、荒れ野の歩みを始めました。しかしその荒れ野の生活は、主が共におられる歩みでした。イスラエルの人々に欠けることはなかったと今日の旧約の聖書個所には書かれています。しかし、彼らは自分の欲だけを見て、主が共におられるのを喜ばなかったのです。最高の祝福の中で、その最高の祝福を喜ばない悲しい存在が荒れ野のイスラエルの民族でした。

 

教会の共同体には、いろいろな力や賜物を持つ人々が集まっているでしょう。しかし、その力や条件にこの基準、「いつも一緒にいた者」が欠けているならば、その人の賜物は何の役にも立てず、むしろ共同体をもっと傷つけるだけです。逆に素晴らしい賜物を持っていなくても「いつも一緒にいた者」なら、その人によって教会は回復されます。何故なら主は、そういう人を用いてお働きになるからです。

 

愛する信徒の皆様。共におられる主を喜ぶ私たちであるか、点検してまいりましょう。

主は、弱くて罪びとの私たちを選び、救ってくださり、用いてくださいます。何故でしょうか。私たちがすごい賜物を持っているからですか。お金が多いからですか。施しを多めにしているからですか。いいえ、ただ私たちのありのまま、主は愛しておられるからです。

 

主は、使徒、つまり「いつも一緒にいた者」を用いて今私たちに福音を届けてくださいました。愛する信徒の皆様、私たちはどうでしょう。私たちはどこにいても主と一緒にいるのでしょうか。私たちの置かれるすべての領域で主と一緒にいる者でしょうか。主がいつも共におられるのを信じて、それを喜び、それだけで十分な者でしょうか。私たちの家庭が、職場が、この教会が、そういう人々の共同体になるよう、共に祈ってまいりましょう。

5月31日、聖霊降臨祭(ペンテコステ)主日礼拝順序と説教

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう。

聖霊降臨祭主日(ペンテコステ)礼拝

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編1042430

     讃美p.114  (単独p.118)

讃美歌    342

聖 書  エゼキエル書37114

          (旧p.1357

使徒言行録2111

           (p.214)

  祷 

使徒信条 

讃美歌  358 

説 教 「教会」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   510        

献 金     

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

-----------

聖書個所:旧約 エゼキエル37114

     新約 使徒言行録:2111

説教題:「教会」

 

1章4-8節:イエスさまの復活の後、イエスさまは弟子たちに自分をお示しになりました。そして、神のについて話されました。弟子たちを集め、「父の約束されたものを待」たせるためでした。イエスさまを裏切り、逃げてしまい、自分達の罪で悲なこころを抱いていた弟子たちに、イエスさまは訪ね、慰め、そして集めました。それは弟子たちの今からの任務を任せるためでありました。その任務をちゃんと成し遂げるためには「父の約束されたもの」が必要でした。

      21節:弟子たちは、イエスさまの仰る通りに、集まって祈っていました。五旬祭(ペンテコステ)になり、突然、とある出事が起りました。この出来事のために弟子たちには、祈りながら待つことが必要だったでしょう。祈りながら待つことは非常に忍耐が必要なことだと思われます。

2-3節:「風」と「炎」:聖霊が降るとき、「風のような音」と「炎のような舌」が現れたと書かれています。風と炎は神の力や聖霊を象徴する代表的表現です。神さまの力がその部屋に集まっていた一人一人の上に宿ったということです。皆の心に風と炎のような聖霊が宿り、皆のこころには火が燃え始めます。かたい鉄を溶ける「ふいご火」のように弟子たちの心を溶かし始めます。聖霊の風と炎は鉄のように固くなった弟子たちの心を溶かしました。聖霊の風と炎は弟子たちの目のうろこを吹き飛ばしました。エゼキエル書の死んだ者らのようになった弟子たちは、聖霊の風と炎によって、動き始めました。彼らの目には、今までは見えなかった真実が見え始めました。主の苦難と復活の意味と恵み、神の絶えない愛、自分のすべてを強く導き始めた聖霊の交わりが見え始めました。神の国が見え始たでしょう。

今まで恐れていた世の脅威は、聖霊によって弟子たちが知ってしまった永遠の国に比べたら恐れる必要がないものでした。それから自分たちと一緒におられるイエス様を見るようになったのです。

      「音」と「舌」:風と炎と同時に、弟子たちに降ったのは「音」と「舌」です。言葉が伝わるためには喉からの音と、その音に変化を与える舌が必要です。弟子たちに降ったのは神の言葉でした。弟子たちに降った聖霊は神の言葉をもって弟子たちに宿られたのです。弟子たちの溶けて柔らかくなったこころに、み言葉が宿られたのです。やっとそのみ言葉は弟子たちの中で生き生きとなりました。

風のような音と炎のような舌が、即ち、聖霊が彼らに降り、今までの弟子たちには想像もできないことができるようになりました。想像もできなかった変化が弟子たちに起こったのです。その変化は燃える心と、神様から与えられた御言葉によることでした。神が共におられることが見えるようになったのです。この世界がどういう原理によって回っているのか、この世界の本当の主人は誰なのかを分かるようになったのです。み言葉通りに、主イエスに従うことができるようになりました。そして、語らざるを得ない状態になりました。今まで自分たちに起きた神の偉大な御業を。

 

「霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした。」国々の言葉で語ったのは福音が地の果てまで伝われることを指します。重要なのは弟子たちが語った内容です。弟子たちは「神の偉大な業」を語りはじめました。

この瞬間こそ、弟子が使徒になる瞬間でした。

 

ペンテコステ、聖霊降臨祭は聖霊が弟子たちにくだり、教会が生まれた日として記念されています。愛する信徒の皆様。教会とは、一つになって祈る音と神のみ言葉が鳴り渡るところ、イエスさまに出会って変えられた人々がその偉大な救いの御業を述べ伝えるところ、聖霊によって燃える心をもって生きる人々が愛し合い、支え合うところ、罪びとが使徒に変わるところ、熱いこころをもって神を愛し、兄弟姉妹を愛する人々、これこそ教会であります。聖霊は今、私たちの間でお働きになっています。

5月24日、復活節第7主日(昇天主日)礼拝順序と説教

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう。

復活節第7主日(昇天主日)礼拝順序


           

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編46112

     讃美p.51  (単独p.55)

讃美歌    337

聖 書  列王記下2115

          (旧p.577

ヨハネによる福音書73239

           (p.179)

  祷 

使徒信条 

讃美歌  54 

説 教 「主は天に昇られた」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   475        

献 金     

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

-----------

説教
列王記下2115
ヨハネ73237
「主は天に昇られた」

共に読んだ32節で主はこう言われます。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」この言葉は、皆さんがよくご存じのように、主の昇天を意味します。

主は復活された後、天に昇られました。しかし、せっかく復活されたのにこのままずっと人々と共にいたらそれでいいのではないでしょうか。目に見えない方より目に見える方を信じるのが人間にはより信じやすいから、イエスさまが天に昇られなかった方がより効果的ではなかったのかなと、疑問を持つのもあり得ることでしょう。

確かに弱い人間には目に見えたほうが信じやすいでしょう。しかし、イエスさまが天に昇られたということから、その目に見えるのが全部ではないことを、真理の道は目に見えないところにあることを、私たちは教えられているようです。

 

私たちは、使徒信条を用いて、私たちの信仰を告白しています。その中、わたしたちはイエスキリストについての私たちの信仰を確かめます。使徒信条には、「天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり」という言葉があります。イエスさまは父なる神さまがおられる天というところにお帰りになったということです。

 

この天というところとはどういうところでしょう。今日の聖書箇所の34節には、イエスさまが帰られるところを人々は見つけられない、来ることもできないと記されています。しかし、37節を見ると、イエスさまは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と言われます。これは全然違うことを同時に言われているのではないでしょうか。

 

まあ。。当時には、イエスさまが天に昇られる前ですからイエスさまのおられるところに行くことができたとしても、今の私たちはどうですか。天に昇られて、その天というところには来ることができないとおっしゃっていますから、今のわたしたちはイエスさまに行くことができないということですか。今の人々は、どれだけ飢え渇いてもイエスさまのところに行くことができないから、その人は救われることができないのですか。

いいえ、決してそうではありません。

まず、天に来ることができないのは、この天を、イエスさまのおられるところを一種類の目に見える場所として理解しているからです。天というのは、空という物理的な空間ではありません。もっと上にある宇宙のどこかでもありません。信仰の先祖たちが神さまを「天におられる」と表現したのは、どこにいても頭の上にある空のように、神さまがおられないところがないことを心から覚えて、そういう神さまを表現していたからです。繰り返しますと、わたしたちがどこにいても空の下にいるように、わたしたちがどこにいても神さまの下にいるという意味します。

 

だから表現を少し変えて、分かりやすくすると、こうなります。

神さまが天におられるのではなく、神さまのおられるところが天であると。

ですからイエスさまは、復活の後、天という未知のとある場所に帰ったのではなく、父なる神さまと共におられるということでしょう。ですからイエスさまが天に昇られて、イエスさまを信じる者は、むしろ、イエスさまに会うことがより簡単になったのです。

 

神さまは目に見えない、そして、イエスさまも天に昇られ、目には見えないようになりました。しかし、神さまがおられるところ、イエスさまがおられるところが天というところであったら、今、礼拝をしているここが天でありますでしょう。

主は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ1820)とおっしゃいました。主の名によって集まるところ、主を求めている信じる者らのところが、天であることです。

 

ですから、渇いている人がイエスさまのところに行くのも可能なわけです。

魂が飢え渇き、イエスさまじゃないと救われられない時、共におられる主を信じているなら、主はその人がいるところを、天にしておられるでしょう。

 

3839節では、そういう人々に、流れ出る生きた水、即ち、聖霊を約束してくださいました。その聖霊は命の水です。人を生かす水です。飢え渇いたものの喉を潤す命の水です。それがその人のところから溢れ出て、周りの人々にも命の道に導くのでしょう。

 

愛する信徒の皆様。

イエスさまは復活の後、弟子たちに「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。聖霊が私たちを天で生きる者、主と共に生きる者、主とつながっている者としてくださるでしょう。主は天に昇られました。私たちも主と共に天を生きる者たちになるのはどうでしょうか。

 

詩編236

「命のある限り・恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り・生涯、そこにとどまるであろう」

5月17日、復活節第6主日礼拝順序と説教

【お知らせ】
5月3日礼拝後に行われた役員会によって、コロナウイルス感染拡大による教会の今の体制を1か月伸ばし、6月末日までにすることが決議されました。しかし、早い段階でこのコロナの危機が収束されるなら、元の体制にすぐ戻すことを前提としています。教会員の皆様のご理解、ご協力をお願いいたします。このコロナウイルスが一刻も早く収束されますよう、そして、教会員の皆様がどこにいるとしても主が共におられ、信仰と生活と健康を守ってくださるよう、共に祈りたいと思います。

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。
教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう、お願いいたします。


復活節第6主日礼拝順序

 前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編8110

     讃美p.10  (単独p.14)

讃美歌    333

聖 書  出エジプト記33711

          (旧p.149

ヨハネによる福音書162533

           (p.201)

  祷 

使徒信条 

讃美歌  55 

説 教 「あなたはひとりではない」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   495        

献 金  

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

-----------

説教

聖書個所:旧約 出エジプト33711

     新約 ヨハネ162533
説教題:「あなたはひとりではない」

2526節:「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたは私の名によって願うことになる。私があなたがたのために父に願ってあげよう、とは言わない。」

 

 

「その日には、あなたがたは私の名によって願うことになる。」私たちはもはやここに言われている「その日」という日を生きています。主イエスの名によって、わたしたちは祈っているからです。そして、その祈りは、主が聞いてくださると、わたしたちは信じています。

26節に説明されているように、主の名によって祈ることとは、主がメッセンジャーになってわたしたちの願いを父なる神さまに伝えてくださるということではありません。主の名によって祈るとき、神さまはその祈りを通して私たちと直接交わりをお持ちになるという意味です。

 

 

ところで、主の名によって祈るというのはどういうことでしょうか。

ただどういう願いでも、最後に「主の名によって祈ります。」という言葉を付ければいいということでしょうか。決してそうではありません。「主の名によって祈る」というのは、いろいろな話ができると思いますが、主の名に属している者の祈りではないかなと思われます。

27節】これができるのは、「父ご自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである。」と書いてある通りです。すなわち、(ヨハネ3:16のように)神さまが私たちを愛してくださり、その独り子をお与えになり、その救いの御業によって、また、私たちがその独り子を信じているからであるということです。

 

この主を信じることとは、私たちが世のものではなく、主のものになることを意味します。すなわち、世と神さまが全く違うように、わたしたちも以前とは全く違うものになったことを意味します。たとえ私たちの生活の中にまだ世のものとしてのこと、罪を犯してしまったり、主の御心に相応しくない姿が見えてしまったとしても、この事実は変わりません。主は、主のものとして相応しく、私たちを作りゆくことに違いありません。その主の導きに応えつつ、従いつつどんどん聖化していくのがクリスチャンの私たちです。

ですから、以前とは違う者は、以前とは違う祈りをする者になるのでしょう。すなわち、主の名によって祈るようになるというのは、主の者に変えられた者の祈り、その変えられた存在に相応しい祈りをうることです。

 

 

それでは、以前の祈りと、この変えられた祈りの違いは何でしょうか。それは、方向性にありますでしょう。今日のみ言葉の25節から、主はこう言われました。「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には。。。」以前の祈りが私たち自身の願いが中心になり、それを主に願うことだとしたら、この新しくされた者の祈りは、主の御心を聞くこと、父なる神さまのこころを知っていくことです。すなわち、自分中心から神さまに向かう一方的な方向性ではなく、主に聞く方向性、さらに、主と交わりを持つ両方の方向性を持つことです。

 

 

共に読んだモーセの話には、「主は、人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」と書いてあります。神さまと友のような交わりを持つこと。これが私たち、新しいいのちを得た者らの祈り方であります。

 

主を信じて、聖霊に満たされ、主に聞き、主の御心に相応しく生きる人生を、主は弟子たちに、そして私たちに約束してくださったのであります。救われた者の生き方とは、他のところでもなく、この交わりを通して主に頼りつつ生きる生き方でございます。

 

 

主は、今日の聖書個所の最後に、また、弟子たちの苦難を預言されました。この苦難は、主のものとして生きる人に来る苦難でしょう。(32)主が人々に捨てられ、裏切られて覚えたその孤独の中、イエスさまは神さまとの交わりの中で雄々しく主の御心に従うことができました。そのように、主は私たちに、主のものとして世の中を生きる時に訪れてくる孤独の時、疲れてしまう時、決して一人ではないことを、主が共におられることを忘れてはいけないとおっしゃっているようです。私たちは祈りをもって友なる主と共に歩む者らだと、おっしゃっているようです。

 

そうです。わたしたちは、独りではありません。

マタイ11:28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

愛する信徒の皆様。主に頼り、主に聞き、主に従う者、新しいいのちに相応しいものとして、今週も共に歩みましょう。

ギャラリー
  • 永年の信仰の友へ
  • 次週礼拝(4月12日)のお知らせ
  • 牧師紹介
  • 牧師紹介
  • 次週礼拝(4月5日)のお知らせ
  • 近藤先生、ありがとうございました。
  • 近藤先生、ありがとうございました。
  • 近藤先生、ありがとうございました。
  • 近藤先生、ありがとうございました。
月別アーカイブ