次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。コロナ禍の中、教会に来れない方々のため、礼拝実況をYouTubeで配信いたします。この礼拝順序とYouTubeライブ映像を通して、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げることができますようお願いいたします。

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聖霊降臨節第11主日

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編782339

     讃美p.85  (単独p.89)

讃美歌    6

聖 書  箴言9111

            (旧p.1002

    ヨハネによる福音書64159

           (p.176)

  祷 

使徒信条 93-4 A)賛美歌のp.146

讃美歌  54

説 教 「天から降ってきたパン」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   56        

献 金  

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

 後 奏

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20200809我孫子教会説教

旧約 箴言 9111

新約 ヨハネ 64159

「天から降ってきたパン」

 

イエス様は天から降ってきたパンです。以前の説教で、キリスト者という者は一つの食卓を囲んで命のパンを共に分かち合う者たちだと申し上げました。その命のパンというのは私たちの主イエスキリストを指します。私たちが食べ物を食べて自分のエネルギーにして生きるように、イエスさまを通して生きる力を得られるということです。生きる力だけじゃなく、永遠の命を得て新しい存在になって新しい人生を歩む者になることです。イエスさまご自身の命を私たちの命にしてくださり、その頂いた命に相応しい者としてくださる主イエスの恵みを表現した言葉です。

 

ところで、聖書の中では「パン」という言葉で記されていますが、私たちのようなお米文化の人たちには若干ピンとこない言葉かもしれません。「パン」と言ったら私たちには主食の感覚でなく、たまたま特別に食べるものという感覚です。なので「命のパン」、「天から降ってきたパン」と言われたら、食べたら永遠の命を得られる幻の薬みたいなものというイメージになりやすいです。しかし、聖書の中の人物はパンを主食としていますので、この言葉は「命のご飯」とかの翻訳がより分かりやすいかもしれません。

 

ご飯というのは毎日たべるものです。特別な時に思い切って食べるそういう食べ物ではありません。しかし、ご飯から離れてみたらすぐわかりますでしょう。ご飯が私たちにどれほど大事なものであったかを。すなわち、私たちが「ご飯」というものを日常的に食べるように、「天から降ってきた命を与えるパン」であるイエスキリストも、私たちの日常でなければなりません。人々にご自身のことを「パン」だと譬えてくださったのは、私たちと「ご飯」のように身近な関係になりたい、いや、ならなければならないという意味に他なりませんでしょう。

 

ご存じのように、イエス様はベツレヘムで生まれました。ベツレヘムという言葉の意味は、「パンの家」、つまり「パン屋」です。天から降ってきたパン、命のパンがイスラエルのパン屋のベツレヘムに生まれたというクリスマスの出来事は面白いことでしょう。イエス様がこの世に来られる前には、いろいろなパンがあってもすべてが結局死んでしまうパンだけだったパン屋に、全く新しいパンが出てきたのです。おいしそうに見えたり格好よく見えるが結局真の生き方はなかったこの世に、人を真の真理の道に導く命のパンができたのです。

 

しかし、今日の聖書個所でイエス様の言葉を聞いていた人々のように、人々はイエス様が分からなかったのです。パン屋にパンは多いし、命のパンに気づけず、他のパンに惑わされてしまうのが人間の弱さ、愚かさであるからです。真のパンか否か、主の御心か否か弁えることが、私たちにはとても難しいことです。では何が必要でしょうか。主の御心通りに生きるため、新しい命を得たものとして相応しく生きるためには、主の御心を弁える知恵が必要でしょう。

 

この知恵はただの賢さ、頭のいいことを意味しません。今日のみ言葉のように、神から来たものにならなければなりません。神様に教えられるものにならなければなりません。(45節)

 

今日の箴言のみ言葉では「主を畏れることは知恵の始め、聖なる方を知ることは分別の始め」と記されています。

 

主を畏れることとはどういうことでしょうか。主を無視しないことではないでしょうか。「いつも主が共におられる」という言葉を私たちは信じています。この言葉のようにいつも共におられる主を無視しなく、忘れることなく、主に集中する新しい視野を持つことに違いありません。

 

それでは、「主を知ること」とは何でしょうか。いつも共に歩んでいる方と親しくなることではないでしょうか。どんどん互いに関心を深めて親しくなって、言わなくても分かってしまうそういう親しみを持つようになったら、み言葉の中、生活のあわただしさの中でも主の御心を弁えることができて、その方向に向かうことができる、ということではありませんか。

 

主を畏れ、主と親しくなりましょう。毎日、毎瞬間、与えられる命のパンを味わいましょう。すべての瞬間に共におられる主に集中し、主がすべての出来事の中でお働きになるのをしっかり目にしましょう。主が共におられるという言葉が皆様に恵みであるなら、その恵みをいつも満喫すること、楽しむことも必要ではありませんか。そうする中で、いつのまにか、知恵は成長され、主の御心をよく分かり、従う者になっていると、共に信じて進みたいと思います。

 

祈りましょう。