次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所で、共に礼拝を捧げますようお願いいたします。

聖霊降臨節第9主日礼拝

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編5419

     讃美p.58  (単独p.62)

讃美歌    204

聖 書  イザヤ書43113

            (旧p.1130

    ヨハネによる福音書61621

           (p.174)

  祷 

使徒信条 93-4 A)賛美歌のp.146

讃美歌  390

説 教 「わたしだ。恐れることはない。」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   448        

献 金    

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

  後 奏

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聖書個所:約 イザヤ42:113

     新約 ヨハネ61621

説教題:「わたしだ。恐れることはない。」

 

弟子たちはティベリアス湖を渡ってカファルナウムに行かねばならなかったです。このティベリアス湖というのはガリラヤ湖のティベリアス地方の方を指します。すなわち、ティベリアス地方からカファルナウムまでガリラヤ湖を渡って行くことです。今日の聖書箇所はこの途中の出来事について語っています。

 

今日の聖書箇所の直前のところでは、即ちティベリアス地方では、有名な五つのパンと二匹の魚の奇跡が起こります。人々は五つのパンと二匹の魚をもって無数の人々を食べさせた主を目撃しました。しかし、人々はこの奇跡の本当の意味を分かることができなかったです。人々は、ただ目の前で起こった食べ物の奇跡に夢中になりました。人々はこういう素晴らしい奇跡を起こすイエスさまを無理やりに自分たちの王にしようとしました。この群衆たちにイエスさまはただ自分たちの欲望を叶えてくれる魔法使いに見えたのでしょうか。彼らにイエスさまが本当にどなたなのか見えなかったのです。

 

また、今日の聖書箇所の次にはカファルナウムに舞台が変わります。そこでイエスさまは奇跡の意味、奇跡が示していること、即ちイエスさまのこと、天から降ってこられた真の命のパンであるイエスさまについての話がつづきます。5000人以上が経験した奇跡ですが、その奇跡が示していた意味が語られる舞台でございます。

 

人々がただ自分の欲望だけを求めていた舞台から、イエスさまの本当のことが語られる新しい舞台への旅路が今日の聖書箇所でございます。

 

 

ガリラヤ湖はすごく大きい湖です。今も、長さが20キロメトル、幅が10キロメトルを超える湖です。イエスさまの時代には今より大きい湖だったそうです。そういう広い湖を夜中に漕いで渡らないといけなかったのです。しかしまだイエスさまは共におられなかったです。夜中で、さらに嵐が来ている状態ですが、弟子たちは出発をしました。

 

彼らは一所懸命、一所懸命、漕いで船を動かせました。そうしている最中、嵐が彼らを襲いました。嵐が襲っても目標は変わりませんでした。つらくても、死にそうでも、頑張って頑張って、ろを漕ぎました。弟子たちはきっと怖かったでしょう。夜中、嵐の真ん中での恐怖は言うまでもないと思います。それどころか、遠いところから幽霊みたいな何かが見えて、自分たちに近づいていました。彼らは大変な恐怖に囲まれていたでしょう。

 

そういたところ、イエスさまが水の上を歩いて彼らのいるところに来られました。イエスさまは恐れている弟子たちに「わたした。恐れることはない」とおっしゃいました。そして弟子たちは船にイエスさまを迎え入れようとしました。そこで突然、話は終わります。

 

弟子たちが4キロメトルほど、頑張ってきた時間は、それはどれだけ長くてつらい時間だったでしょう。目標まではまだまだ半分も至っていない、嵐は沈める気配もない、。。彼らの4キロメトルがどれだけ長かったのか想像できます。

 

しかし、不思議なことです。イエスさまが彼らにこられたとき、そして彼らがイエス様を迎え入れようとした瞬間、「まもなく」船は目的地にたどり着きました。

 

突然、話は終わってしまいました。瞬間移動とかの奇跡の話ではありません。この話のほとんどはイエス様が彼らと共におられる前、弟子たちの苦しんでいた話になっています。しかし、最後の一節で話は終わってしまいます。イエスさまが彼らに来られた後の時間は、イエスさまが来る前の時間とは全く違う流れになったからです。

 

皆さんは恋人と一緒にいるとき、それとも、友達と楽しい時を過ごすと、時間が早すぎるよなと思われた時があるでしょう。逆に、つらい時の時間はなんと長いか言うまでもないです。

 

イエスさまが弟子たちに来られた時、時間は、まるで、恋人と一緒にいる一時のように、友達との楽しい時のように、イエスさまのいなかった苦しい時間とは全く違うように、流れ始まめたのです。イエスさまと共にいることとはこういうことです。

 

私たちの人生も同じでしょう。イエスさまと共に歩まない人生とイエスさまと共に歩む人生は根本的に違います。怖い時、つらい時に、イエスさまが私たちに話をかけてくださることを想像してみましょう。「わたしだ」というイエス様の声がどれほど救いになるかは言うまでもないでしょう。

 

今日の聖書箇所ではイエスさまが来られて嵐を叱ったり沈めたり、弟子に水の上を歩かせたりはしません。イエスさまが弟子たちの所に来られても彼らはまだ嵐の中でした。目的地はまだ半分以上残っています。しかし、変わったのはイエスさまと共に嵐の中にいるということです。それで、今までの旅路は変わり、イエスさまと共にする旅路になります。

 

神さまを信じるようになったとしても、突然お金持ちになったり、毎日奇跡が起こったりはしません。人生の思い煩いがなくなるのもないです。しかし、その人生は、表に見える状況は、同じようでも、その真実と意味は全く違うものになります。

 

最初はイエスさまのために頑張ろうと思って、一所懸命頑張ってきたのに、とある瞬間、自分は一人で頑張っているような孤独を感じてしまい、いやになるときも私たちにはあります。他方、世の中を生きるのにとてもとても怖い時も私たちに訪ねてくる時があります。イエスさまが本当に共におられるかどうか分からなくなる時も多いのが率直なことです。しかし確かなことは、その嵐の中でも、「わたしだ。恐れることはない」と、共に行こうとおっしゃる主がおられることです。

 

我々はそういうイエスさまを受け入れ、全く新しい人生のスタートラインに立ち、それから、イエスさまと共に一歩一歩、歩んでいます。

 

弟子たちが「間もなく」目的地にたどり着いたように、嵐の中でもイエスさまとの楽しい旅路になったように、主が共におられるなら、世の中の苦しみの中でも憩いのみぎわも青草の野原もあり、間もなく目的地に着いたと思うほどの幸福があります。

 

愛する信徒の皆さま、私たちはイエスと共に歩む人々でございます。この最高の幸福をいつも味わう人々でありたいと願い、感謝して共に祈りましょう。