次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所で、共に礼拝を捧げますようお願いいたします。

聖霊降臨節第8主日礼拝

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編96713

     讃美p.106  (単独p.110)

讃美歌    155

聖 書  ミカ書7:1220

            (旧p.1458

      使徒言行録241021

           (p.262)

  祷 

使徒信条 93-4 A)賛美歌のp.146

讃美歌  482

説 教 「復活の時」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   471        

献 金     橋詰貴美子

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

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ミカ71220

使徒24:1021

説教題「復活の時」

今日のパウロはフェリクスというエルサレムの総督の前で裁判を受けています。パウロは自分のことを弁論していますが、それはイエスキリストについて、そして復活についての証言、証でありました。

パウロがこの裁判所に立っているは、彼を殺そうとするユダヤ人たちがエルサレムに入った彼を訴えたからでした。パウロがローマの市民権を持っていなかったら今総督の前に立つことすらできず殺されたでしょうが、彼はローマの市民権を持っていたため、総督の前で自分を弁論することができ、なにより今、総督の前でイエスキリストと復活について、即ち、福音を宣べ伝えていることになりました。死ぬ危機が世界に福音を宣べ伝える機会になったのはなんと素晴らしい神様のお働きでしょう。

 

ところで、この場面は、イエス様の裁判を思い出させます。罪のないのに、群衆騒動と神冒涜のことでユダヤ人によって訴えられ、殺される危機に遭ってしまったことがとても似ているからです。先週の礼拝で、弟子(キリスト者)という者はイエス様の歩んだ道に従って歩む者であると説教いたしました。その道は人々を生き返らせる者たちだと申し上げました。今日のパウロもそうでした。今日の聖書個所はイエスさまの最後の苦難の道を彼が同じように歩んでいる場面だと言えますでしょう。その故、彼は総督の目の前で、福音を、永遠の命を宣べ伝えることができました。

 

パウロはイスラエルに入る直前、カイサリアで預言者アガボに出会い、彼の預言を聞きます。【(使徒21:1011幾日(いくにち)か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。そして、わたしたちのところに来て、パウロの(おび)を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」】パウロがエルサレムに入ったら捕まってしまい、殺されるという預言でした。この内容はそこにいたすべての信者たちが予想していたことであり、人々はエルサレムに行かないように、パウロに泣きながら頼みました。苦難を控えたいと思うのは人間の普通の反応だと思われます。しかし、何故彼は自分がイエスさまでもないのに、苦難の道を選んだのでしょうか。今日の聖書個所以外にも、パウロは無数の危機に遭いがら伝道していきました。どれ一つ簡単な道はなかったのです。パウロは何故、自分がイエス様でもないのにこういう道を歩んできたのでしょうか。それは、その苦難の道に神の御心があったからです。イエスさまがその道を先に歩んだからです。そこに神の御心があるからです。

 

それどころか、彼が苦難の道を選んだのは、今楽に暮らすことより苦難の道を喜んで受け入れたのは、今の苦難を喜んで受け入れられる永遠の喜びと希望を見ていたからです。それは復活の希望でございます。パウロはその復活を、見つめながらイエス様の後をついていきました。そして、共に復活という希望を見あげながら一緒にイエスキリストの道を歩もうと宣べ伝えてきたのです。

 

繰り返しますが、イエスの道に従っていくのがキリスト者という者の道であると申し上げました。しかし、この道が決して簡単ではございません。聖書の中のイエス様の教えや弟子たちの人生などをよく読んでみてください。イエス様を従うことがどれほど難しい苦難の道であるかすぐわかるでしょう。わたしたちもキリスト者であれば、今日の聖書個所のパウロのように普通の人間としては考えられない道を選ばなければならない時が来るのです。そして、損しながら、自分が頑張ってきて手に入れたと思う者を手放さなければならない時が来るのです。

 

しかしパウロはこう言います。

【(フィリピ379)しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失(そんしつ)と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切(いっさい)を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを(ちり)あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。】

 

パルロはローマの市民権があり、エリートの教育を受け、社会的にいわゆる成功の道を歩むことができる人でした。しかし彼はそれをすべて塵あくたとして見なしていると言います。イエス様を知ること、(した)しくなること、共に歩むこと、そうして復活の希望を抱いて生きることが、何より良いことで、楽しいことであると分かっているからです。だから彼はその苦難の道をしのびつつ、いや喜びつつ歩むことができたのでしょう。

 

私たちも弟子なら、苦難の道を歩むようになるかもしれません。しかし、恐れる必要はありません。主イエスはおっしゃいました。【(マタイ11:2830)疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和(にゅうわ)謙遜(けんそん)な者だから、わたしの(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」】主の道を歩むとき、そのくびきが私たちの目にはとても重く見えても、そのくびきは負いやすく、荷は軽くなります。何故なら主が共にそのくびきと重荷を負ってくださるからです。パウロも、ペトロも、2000年にわたった他の無数の弟子たちも、苦難の道に見えるが、実は軽くて喜び満ちた道を歩んでいました。

 

今どきの世の中は、生きていることだけで、つらい時だと言われています。しかし、天に国籍を持って主と共に歩むキリスト者の道は、自分も聖化されつつ、人々を、そしてこの世を変えていく道です。主がご自身の人々を通してお働きになるからです。だから主の中にとどまりましょう。主の道に従ってまいりましょう。苦難の道に見えてもその道は主と共に働く喜びが、そしてその先には復活の永遠の命があるのです。