次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますようお願いいたします。

聖霊降臨節第6主日礼拝

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編12616

     讃美p.143  (単独p.147)

讃美歌    211

聖 書  ヨナ4111

            (旧p.1447

   エフェソの信徒への手紙21122

           (p.354)

  祷 

使徒信条 93-4 A)賛美歌のp.146

讃美歌  57

説 教 「地の果てまで」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   484        

献 金     

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

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説教題「地の果てまで」

ヨナ4:111

エフェソ2:1122

  

ヨナは神様の前から逃げました。

神さまがやりたくないことを命令されたからです。彼は敵であるニネベに行って予言しなければならなかったです。しかし、彼はニネベの人々が悔い改めて神さまの慈しみと赦しを得るのが嫌だったのです。ニネベの人たちが悪と罪から立ち返らなく、そのまま滅んだらいいとヨナは望んでいました。だから彼は神様から逃げようとしました。

 

ヨナは敵に預言することが嫌だったのです。

預言というのはどういうことでしょう。預言とは、未来を予測する行為ではありません。預言という漢字どおり、み言葉を預かり、それを伝えることです。旧約の預言は民の罪、それに対する神さまの審判、もうすぐ来てしまう災いなどについての警告がほとんどだという印象がありますでしょう。ですから旧約に表現されている神さまは怖い神様だと言われがちです。しかし、その預言というのは、人の罪から立ち返るのを求めておられる神さまの愛があるのを忘れてはいけません。預言というのは「このままではあなたたちはわたしと共にいるのができなくなる。離れてしまう。わたしには赦しがある。だから悔い改めて帰ってくれないか。わたしはあなたがたを諦めていない。」という神さまからのメッセージであることを忘れてはいけません。預言をする人は、厳しい裁きや罪の結果を伝えることでなく、この神さまの愛を伝えることです。

 

ヨナが逃げてしまったのは、この愛が自分の敵に伝わるのが嫌だったのです。【ヨナ4:2

ヨナという人物は列王記下14:25に登場する北イスラエルのヤロブアム二世の治世において活動されていた預言者です。彼は北イスラエルの領土修復を預言しました。神さまは当時、ヤロブアム2世の罪にもかかわらず、イスラエルの民たちを愛し、領土修復を許してくださったと記録されています。ヨナは神の愛と慈しみを誰よりも肌で経験し、よく分かっていた人でした。しかし、異邦の人、特に敵の都市に行って、預言すること、その愛を伝えることは嫌だったのです。自分が受けた愛を、滅びるのが当然な赦し難い敵も受けるのが嫌だったのです。これは人間の罪深さの一面でしょう。

 

更に人間はとても頑固な罪の存在なので、神様の心を分かっても、結局逃げてしまうのです。【ヨナ12章】ヨナは船に乗って逃げてしまいました。しかし神さまから逃げられないと判断したでしょうか、結局船乗りたちの手を借りて嵐の海の中に投げられて死ぬことにします自分が死んでもやりたくないことをやらないのが人間です。

 

しかし神さまはそういう人を遣わして、自分の愛を伝えようとされました。何故なら、ニネベという所に住んでいる人々も、預言を聞くべき、神さまの愛の対象であるからです。神さまにとって救ってあげたい愛する人々、家畜まで、そこにあるからです。【ヨナ4:11

 

今日のみ言葉のエフェソには、わたしたちが神さまから離れていた者らだったが、今はイエスキリストによって和解させられ、一つの霊によってつよく結ばれた人々だと、記されています。このように、わたしたちはヨナよりも、聖書の誰よりも神の愛を肌で感じられている者たちです。わたしたちはこの事実を忘れてはいけません。

 

しかし、これと同時にわたしたちが忘れてはいけないことがあります。それは、今神の愛を知らない人々があること、わたしたちがその愛を伝わらなければならない人々が今わたしたちの所にいることです。

 

マタイによる福音書281920節で、イエスさまは言われました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」また、使徒言行録18節にはこういわれました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 

イエスさまは、わたしたちを神の愛を伝える預言者として、遣わしてくださったのです。先に主の愛を経験し、その愛に生かされている者として、その愛を伝えるように、地の果てまで伝える証人として遣わしてくださったのです。だから伝えなければなりません。そこに神の愛と赦し、慈しみ、恵み、キリストに従う正しい生き方が必要な人たちが大勢おります。

 

さきほど、「地の果てに至るまで」というみ言葉がありました。

わたしたちの「地の果て」とはどこでしょうか。それは今日のヨナが気にいらなくても伝えたニネベの人々のようではありませんか。とても赦すことのできない相手までに、自分が受けた愛の証人になり、愛をもって臨むこと。それがキリストに従う者の生き方でありますでしょう。

 

これができるのは、わたしたちこそが主の敵であったからです。しかし主の愛によって罪から、主の敵の席から移されて主の体になった経験があるからです。そして今もなお、いつも切れることなく与えられる愛によって生かされているからです。

 

人によっては地の果てというのが自分の家族になるかもしれません。自分の友達になるかもしれません。自分に悪いことをして自分に罪を犯したとある者かもしれません。人によっては、その赦し難い自分自身になるかもしれません。しかし伝えましょう。主の愛と慈しみを。そうすることによって、伝えるものも伝えられるものも、真の救いの人生を歩むことができます。【主の祈り―我らに罪を犯すものを我らが赦す如く、我らの罪をも許したまえ。】