次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますようお願いいたします。

聖霊降臨節第5主日礼拝

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編84113

     讃美p.93  (単独p.97)

讃美歌    16

聖 書  出エジプト24111

            (旧p.134

    ヘブライ人への手紙121829

           (p.418)

  祷 

使徒信条 

讃美歌  218 

説 教 「天のエルサレム」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   542        

献 金    

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

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聖書箇所:旧約 出エジプト24:1-11

     新約 ヘブライ12:18-29

説教題:「天のエルサレム」

 

今日の旧訳のみ言葉は、みんなが神さまの前で共に飲み食いする食事の場面です。

彼らは神さまの民として、神さまは彼らの神として、神さまの前で共に食卓を囲んで食べるのが許されたのです。「主は、この食卓で彼らに手を伸ばされなかった」と書いてあります。彼らの罪によって神さまの前で死ななかったという意味です。なぜなら、彼らが神さまの民であったからです。神さまがそう決めたからです。彼らがどれだけ足りない人間であっても、どれだけ愚かな罪人であっても、主は、彼らを自分の民として受け入れてくださいました。そして、彼らを招き、同じところで神様を見ながら飲み食いすることができるようにしてくださいました。

 

今朝共に読んだヘブライ人への手紙には、「天のエルサレム」という言葉が出てきます。神さまは今日の聖書個所を通して、私たちに、この旧約の場面も勝ることのできない「天のエルサレム」つまり「天国」に、もはや近づいていると言っています。

 

 

皆さま、クリスチャンという者たちををどういう者たちだと言えるでしょうか。

色々と言えると思いますが、私たちは、一つの食卓を囲んでいる者たちだと言いたいです。

 

私たちの主であるイエスキリストはとても食事(一つの食卓を囲むこと)を大事にしていました。

まず、イエスさまに対する人々の言葉に「食べること」が入っています。

(ルカ7:34)見ろ、大食漢(たいしょくかん)で大酒みだ。徴税人や罪人の仲間だ』イエスさま、そうとう食べ物好きでしたでしょうかね?これは食べること飲むことが好きだったというより、罪人と一緒に食卓を囲んでいたということでしょう。

 

イエスさまは、いつも食事の場にいらっしゃいました。

イエスさまを裏切って、心が痛くなって、苦しんでいたペテロの前に、復活なさったイエスさまが現れた時、主は、魚とパンを焼いてペテロを待っていました。食事を共にして彼らを再び立ち上がらせるためでした。

 

聖餐を制定する時も、過ぎ越しの食事のところでした。

 

イエスさまは、いつも罪人のところに訪ねて、彼らと共に同じ食卓で食べながら、彼らを悔い改めさせ、神の子としました。ルカ19章に出るザアカイという人とイエスさまの物語が良い一例になるでしょう。【5節「ザアカイ、急いで 降りて來なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」】

 

ご飯というのは生命・いのちの象徴です。食卓とはこのいのちを頂く所だといえるでしょう。

 

イエスさまは、ご自身のことをパン、食べ物に例えました。

自分を「生きたパン」だと言っています。。【ヨハネ6:4850わたしは命のパンである。/あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。/しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。】

 

パンというのは命を象徴します。パンは、生き続けるためにもっとも大事なもの、つまり命そのものでありました。だから主の祈りにパンの祈りが入っているのです。自分の命は神様から与えられているものであることを信じている者の祈りだといえるのです。

 

古代の人たちは、どういう食卓に着き、どういうものを食べているかが、その人の正体・身分・その人が誰であるかを示されました。

さきほど、食卓とはこのいのちを頂く所だと申し上げました。神さまから毎日の必要な糧(いのち)を頂く人は、神さまと一緒に食卓を囲む者であるのです。神さまの食卓で毎日の糧を頂くもの、神さまに属するものであります。神さまに生かされる者であります。

 

イエスさまが罪人と共に食卓を囲んだのは、その罪人が空しい世の食卓で命のないパンを頂く者から、イエスさまという命のパンを頂く神さまの食卓に着く者に変わるように臨んだ主の招きで他ならないのです。

 

パン、つまり、食べ物というのは、もともとは命があったものです。人間は自分の命を維持するために、ほかの命を無にして自分の命にする存在です。

イエスさまがこの世に来られて、自分をパンだと例えたのは、イエスさまご自身の命を私たちの命にしてくださるからです。イエスさまご自身を食べなさいとおっしゃったのは、主の命によって私たちが生きるようになるからです。イエス様はご自身の命をなくして、私たちがまことの命を得るように、神さまと共に食卓を囲む者になるように、してくださったのです。クリスチャンという人はそういう者たちです。

 

主イエスキリストは、命のパン、自分を信じるものを神さまの民として活かすパンでございます。

私たちは、主イエスキリスト、この生きたパンを同じ食卓を囲んで食べる者たちです。主イエスキリストという命のパンによって生きる者たちです。

 

だから世が決めた食卓に着くことが人生の目的の全部になって他人を落としたり傷をつけても自分だけがその食卓に着けばいいということはありません。愛せなくなったり、赦せないこともありません。永遠な目的をもって主と共に飲み食いしながら笑いながら歩むことができるのです。

 

主は今朝、こういう食卓に、その永遠の食卓に、わたしたちを招いておられます。

 

ヨハネの320

見よ、わたしは戸口(とぐち)に立って、たたいている。だれかわたしのを聞いて()を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。