次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう。

聖霊降臨節第4主日礼拝

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編16711

     讃美p.16  (単独p.20)

讃美歌    343

聖 書  ハバクク214

            (旧p.1465

ヨハネの手紙一22229

           (p.443)

  祷 

使徒信条 

讃美歌  60 

説 教 「御子の内にとどまりなさい」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   403        

献 金   

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

説教

ハバクク2:14

1ヨハネ2:2229

「御子の内にとどまりなさい」

 

 

今朝、私たちはヨハネの手紙の一部分を共に読みました。この手紙の内容は、残っている者たちのために書かれた手紙です。1ヨハネ219節を読んでみると、ヨハネの共同体(教会)を離れた人々がいたことを分かることができます。

 

彼らは何故離れたでしょうか。詳しくには分かりませんが、この手紙が書かれていた時代には教会に対するひどい迫害があったことは確かだと言われています。ですから、キリスト者として当時を普通に生きることはできないことだったでしょう。

 

迫害の理由もいろいろあったと言われています。政治的では、ローマ皇帝を神として、また主として仕えないことで国家的暴力が続いていたのです。これはイエスさまの十字架の上に書かれた罪状書きと同じでしょう。「死刑に処された政治犯に従う人々」ということだったでしょう。また、ユダヤ人による迫害もイエスさまの時代から、ずっと続いていたことでした。それどころか、一般社会の中で、クリスチャンについてのおかしい噂も広がりました。人の血と肉を食べる者らだとか、テロリストの集団だとか。。なのでクリスチャンの一般の生活が普通の回ることはできなかったでしょう。

 

しかし、当時のクリスチャンたちは、自分が社会的に危ない存在でないことを証明したり、自分たちが受けている迫害や差別が不当なことであると訴えたりすることすらできなかったです。彼らは少数だったし社会的弱者だったので、何か悪いことが起きたら彼らを利用しやすい存在だったからです。ローマの放火事件はキリスト者の仕業だと罪をこすりつけた事件がちょうどいい例であります。

 

そういう時代でしたので、信仰の弱い人々がつまずき、共同体を離れることは簡単に予想できるでしょう。人間は弱い存在です。それによって、共同体の中には相当な揺れがつづいていたのも予想できます。

 

こういうふうに、彼らは共同体の内外で大きな脅威に苦しめられる状況でした。理由はただ、イエスを主として、救い主として信じ、従っていたからです。この脅威はキリスト者たちを神さまから、イエスキリストから引き離そうとする巨大な脅威でした。今日の聖書個所に出てくる言葉の中、「反キリスト」という言葉が出てきます。「反キリスト」というのはこういう脅威をキリスト者に行うことを意味します。

 

聖書の中には、「サタン」や「悪魔」などの言葉もよくでてきます。この言葉から皆さんはどういうイメージを浮かべますでしょうか。怖い鬼や鬼神などの存在をイメージしますか。映画エクソシストに出てくる幽霊的な存在をイメージしますか。私たちがこういう言葉を見た時に思うべきことは、「私たちをキリストから引き離そうとする実質的な脅威」に他ならないです。今日の聖書を書いたヨハネも、この手紙を読んでいる当時のキリスト者たちも、この脅威を肌で感じていたでしょう。

 

当時の人々に比べて、今の日本で生きている私たちはすこしよくなっているかもしれません。せめて信じることだけで殺されたりはしないですから。しかし、ちゃんと覚えなければならないことは、キリストを信じることだけで殺される事が今も世界のどこかには起こっていること、また、私たちをキリストから切り離そうとする脅威が消えたわけではないことです。

 

今の日本で生きているわたしたちにも、ヨハネの共同体が抱えていた脅威は、違う形をもってより賢くなって残っているのです。「われらの真の国籍は世にあるものでなく、天にある」「私たちは主に属するものであり、世の中で主のものに相応しく生きるべき」というのは、最近の我孫子教会礼拝の大きい主題(流れ)ですが、皆さんもよくご存じのように、こういうことは決して簡単なこと、やさしいことではありません。あえて例えを用いなくても、ここにいる皆さんの経験を通してよくわかることでしょう。

 

しかし、わたしたちの内には主から受けた喜びがあります。主を最初に出会ったその驚くべき記憶があります。主と共に歩みながら聖化の経験があります。み言葉の甘さを私たちは知っています。世の原理でなく主に従った時の良さも、主から褒められる感動の記憶もちゃんと私たちの中にはあるのです。情けなく罪だらけの私たちでさえ、絶えず待ってくださり、差し伸べてくださった愛を取り入れることもしない主をよく知っています。だから私たちはこれからもクリスチャンとして生きることができます。主の愛によって生かされる喜びの証が私たちにはあるからです。

 

主から離れないためにわたしたちには、信仰の成長といえますでしょうか、聖化していくことが必要です。世のどういう誘惑にも自分のどういう罪にも揺らぐことなく主に従うためには、そのためには今日の聖書個所の27節の最後のところのヨハネの勧告のように、「御子の内にとどまること」が必要です。

 

御子の内にとどまることとは、御子の心をもって生きることに違いないでしょう。自分の心を主の心にして、自分の目を主の目にして、自分の周りの人々に臨むことではないでしょうか。主の目で自分を見て、主の目で他人を見るときこそ、わたしたちは揺らぐことなく、惑わされることなく正しい方向に歩むことができるでしょう。

 

愛する信徒の皆様。

御子の内に共にとどまるのが最高の幸福であることを覚え、揺らぐことなく聖霊に満たされつつ、どうどうとこの世をキリスト者として共に歩みましょう。聖霊が導いてくださいます。