次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう。

聖霊降臨節第3主日礼拝

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編29111

     讃美p.30  (単独p.34)

讃美歌    351

聖 書  申命記61725

          (旧p.291

ローマの信徒への手紙10517

           (p.288)

  祷 

使徒信条 

讃美歌  56 

説 教 「信じる者の裏表」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   522        

献 金     藤田和子

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏
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説教

申命記6:17~25

ローマの信徒への手紙10:517

 

律法を守ることでなく、「信じることで救われる」

この言葉を私たちはクリスチャンとしてよく聞いています。この言葉は私たちにとって真理であり、絶対に忘れてはいけない言葉です。

ところで、今日の旧約聖書の中、モーセは律法をちゃんと守りなさいとイスラエルの人々に訴えています。「信じることによって救われる」という言葉とは違う話だなと思われやすい言葉です。

 

しかし、今日の申命記の言葉をよく読んでみると、「守ると救われる」と言ってはいません。「よく守ると…常に幸いに生きるようにしてくださる(21節)」と書いてあるのです。彼らに救いはもはや与えられているものでした。エジプトの奴隷でなく、まことの自由人として、また神の民として生きるように神さまは彼らをエジプトから救ってくださいました。奴隷という身分から神の民という身分に彼らは変えられたのです。

人々はこの「幸いに生きること」という言葉が「救い」という言葉と紛れてしまいがちですが、これは、神の民としてふさわしく生きるようになることを意味します。神さまの掟と戒めをちゃんと守ると、神さまは、神の民という身分に相応しく彼らを作ってくださるという意味です。「あなたたちはまだ「神の民」という名前だけだが、これからは名前だけでなく、その名に相応しい者に作ってあげる」と神さまは自分の民におっしゃっているのです。

 

イスラエルの民族の救いは、律法をよく守ったから与えられたご褒美みたいなものではありません。彼らの救いは百パーセント神の愛と恵みによることでした。そして荒れ野の生活も、カナンでの生活もすべて神の愛と恵みでした。しかし彼らはそれをよく分からなかったようです。

 

モーセの時から、その以前、創造の時から、人間は神さまの恵みによって生かされてきたのが真実ですが、モーセ以降のイスラエルの人々はそれを忘れてしまったのです。主の民として相応しく生きるための規範であった律法が、いつの間にか救いの基準だとイスラエルの人々は思い込んでしまったのです。前後が逆になったのです。だから人々は自分の努力で救われたと思い込んで、ますます傲慢になって、律法を自分より守っていない人を見下ろしたり、自分が人の救いを裁いてしまうことまで行ってしまったのです。イエスさまの当時のファリサイ派の人々や祭司長たちが、イエスさまのことを理解できなく十字架につけたのはこういう理由に違いないでしょう。

 

パウロの時代もそうでした。ローマ5;67のみ言葉がそういう意味です。「誰が天国に行けるのか、だれが地獄に行くのか」、こういうふうに人々を何らかの努力の度合いで(行いで)判断して裁いてしまったら、それは神さまの救いの御業を、イエスさまの犠牲と復活を無駄にしてしまうことであると、パウロは言うのです。人間は自分の救いについて何の功もないことをはっきり覚えていなければなりません。

 

そうです。パウロの言う通り、私たちは主の恵みによって救われました。わたしたちは信仰が与えられ、キリストの苦難と死と復活はもはや他人事でなくなり、その信仰によって救われた者らです。私たちの昔の身分はなくなり、新しい人になりました。主の愛によって主と固くつながっている人々になったのです。

 

しかし、身分が変わったこと、世の奴隷でなく、神の子という身分をもったことに留まるのはいけません。イスラエルの人たちは奴隷の状態から救われたことで終わりでなく、それから荒れ野を通して約束の地に入って主の民らしく子子孫孫生きることが残っていたのように、私たちも信じること、それで終わりではありません。

 

これから始まるのです。信仰者、キリスト者、神の子としての新しい人生がこれから始まるのです。身分と実体が一致するキリスト者の完全に向かってこれから走るのです。

 

 

パウロは今日の聖書個所で二つを言っています。

心で信じること、口で公に言い表すことがそれです。

心で信じることとは、主の復活を信じて今も生きておられる主を受け入れることです。なお、わたしたちが主の恵みによって救われた者であることを完全に受け入れることを言います。自分が以前の身分とは全く違う身分の人になったことを覚え、受け入れることです。救いの確信を持つことです。

 

口で公に言い表すこととは、わたしたちが救われたものとして実際に生き抜くことを意味します。すなわちキリスト者として愛することです。常にいただいている主の愛を伝えることです。自分の欲望に従うのでなく、主に従うことです。自分の希望が主の希望と一致することです。キリスト者という名前だけじゃなく、主の恵みによってその名に相応しいものに変えられていくことを人々に見せることです。

 

私たち一人一人のすべてが、救われた喜びに満ちて救われたものとしてこの世を生きようとするとき、主は必ず私たちを御心に相応しく作ってくださるでしょう。

主の福音、良い知らせが、そういう私たちを通して、私たちのいるところどころに、また、地の果てまで伝わることを信じ、共に祈りたいと思います。