次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう。

三位一体主日礼拝

 前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編373040

     讃美p.41  (単独p.45)

讃美歌    223

聖 書  申命記2915

          (旧p.327

使徒言行録11426

           (p.214)

  祷 

使徒信条 

讃美歌  454 

説 教 「いつも一緒にいた」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   521        

献 金    

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏
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説教題「いつも一緒にいた」

申命記2915

使徒言行録11426

今日の聖書個所は、イエスさまの昇天とペンテコステの出来事の間に置かれています。聖霊が降り、弟子たちは真の使徒となり、聖霊に導かれて地の果てまで教会教会が建てられる前に、今日の出来事は必要だったからでしょう。

 

何故12番目の弟子が必要だったのでしょうか。それはイスカリオテのユダの罪によって傷ついたこの共同体に癒しと回復が必要だったからでしょう。これから聖霊が降り、前に力強く進むために、この共同体が抱えている傷は回復される必要があったと思われます。彼ら一人一人が復活されたイエスさまに出会って自分の罪を赦され、傷を癒されたことのように、この共同体にもそれが必要だったのです。

 

新しい12番目の使徒を選ぶために、彼らは基準を立てました。その基準とは、立派な外見でも、賢い頭でも、お金でもなく、「いつも一緒にいた者」でした。主が洗礼を受ける時から復活されて昇天されるまで(主と、またそこの人々と)一緒にいた者が基準でした。この基準だけを満たした人の中で、祈りとクジ引きを通して、つまり主に委ねて選ぶ形をとりました。

 

先ほど、共同体を癒し回復するために、新たに人を選ぶ必要があったと申し上げました。教会という共同体も、そういう時があります。そういう時、私たちはこう考えるでしょう。今回は優秀なものがいいなとか、若くて力持ちがいいなとか、イケメンだったら、賢い人だったら伝道にいいでしょうとか。。。しかし、聖霊が弟子たちの共同体に教えてくださった基準というのは「いつも一緒にいた者」、それだけでした。

 

この「いつも一緒にいた者」という言葉の意味は何でしょう。「いつも一緒にいた者」のマティアのことを想像してみましょう。彼がいつも一緒にいたのは何故でしょうか。その答えは簡単でしょう。主が大好きだからです。同じように、皆さんは、何故ここに座っているでしょうか。イエスさまが大好きだから、神さまを愛しているから、共に礼拝するのが嬉しいからでしょう。マティアも同じだったと思われます。「いつも」主を愛し、「いつも」主と一緒にいたいと思っていたからです。「いつも一緒にいた者」これがなにより最も重要な基準であるのは主を愛する心をもって、愛していつも一緒にいること、この状態が何より重要であるからです。

 

この「いつも一緒にいた者」というのは、これから一緒にする予定という未来形でも、これまで一緒にいたという過去形でもなく、ずっといつも一緒にいる状態を意味します。ずっとずっと一緒にいる人、ずっと主が大好きで、いつも共におられる主を喜ぶ者。これが「いつも一緒にいた者」の意味でしょう。

 

イスラエルの人々を神さまは出エジプトから連れ出して、荒れ野の歩みを始めました。しかしその荒れ野の生活は、主が共におられる歩みでした。イスラエルの人々に欠けることはなかったと今日の旧約の聖書個所には書かれています。しかし、彼らは自分の欲だけを見て、主が共におられるのを喜ばなかったのです。最高の祝福の中で、その最高の祝福を喜ばない悲しい存在が荒れ野のイスラエルの民族でした。

 

教会の共同体には、いろいろな力や賜物を持つ人々が集まっているでしょう。しかし、その力や条件にこの基準、「いつも一緒にいた者」が欠けているならば、その人の賜物は何の役にも立てず、むしろ共同体をもっと傷つけるだけです。逆に素晴らしい賜物を持っていなくても「いつも一緒にいた者」なら、その人によって教会は回復されます。何故なら主は、そういう人を用いてお働きになるからです。

 

愛する信徒の皆様。共におられる主を喜ぶ私たちであるか、点検してまいりましょう。

主は、弱くて罪びとの私たちを選び、救ってくださり、用いてくださいます。何故でしょうか。私たちがすごい賜物を持っているからですか。お金が多いからですか。施しを多めにしているからですか。いいえ、ただ私たちのありのまま、主は愛しておられるからです。

 

主は、使徒、つまり「いつも一緒にいた者」を用いて今私たちに福音を届けてくださいました。愛する信徒の皆様、私たちはどうでしょう。私たちはどこにいても主と一緒にいるのでしょうか。私たちの置かれるすべての領域で主と一緒にいる者でしょうか。主がいつも共におられるのを信じて、それを喜び、それだけで十分な者でしょうか。私たちの家庭が、職場が、この教会が、そういう人々の共同体になるよう、共に祈ってまいりましょう。