次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう。

復活節第7主日(昇天主日)礼拝順序


           

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編46112

     讃美p.51  (単独p.55)

讃美歌    337

聖 書  列王記下2115

          (旧p.577

ヨハネによる福音書73239

           (p.179)

  祷 

使徒信条 

讃美歌  54 

説 教 「主は天に昇られた」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   475        

献 金     

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

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説教
列王記下2115
ヨハネ73237
「主は天に昇られた」

共に読んだ32節で主はこう言われます。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」この言葉は、皆さんがよくご存じのように、主の昇天を意味します。

主は復活された後、天に昇られました。しかし、せっかく復活されたのにこのままずっと人々と共にいたらそれでいいのではないでしょうか。目に見えない方より目に見える方を信じるのが人間にはより信じやすいから、イエスさまが天に昇られなかった方がより効果的ではなかったのかなと、疑問を持つのもあり得ることでしょう。

確かに弱い人間には目に見えたほうが信じやすいでしょう。しかし、イエスさまが天に昇られたということから、その目に見えるのが全部ではないことを、真理の道は目に見えないところにあることを、私たちは教えられているようです。

 

私たちは、使徒信条を用いて、私たちの信仰を告白しています。その中、わたしたちはイエスキリストについての私たちの信仰を確かめます。使徒信条には、「天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり」という言葉があります。イエスさまは父なる神さまがおられる天というところにお帰りになったということです。

 

この天というところとはどういうところでしょう。今日の聖書箇所の34節には、イエスさまが帰られるところを人々は見つけられない、来ることもできないと記されています。しかし、37節を見ると、イエスさまは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と言われます。これは全然違うことを同時に言われているのではないでしょうか。

 

まあ。。当時には、イエスさまが天に昇られる前ですからイエスさまのおられるところに行くことができたとしても、今の私たちはどうですか。天に昇られて、その天というところには来ることができないとおっしゃっていますから、今のわたしたちはイエスさまに行くことができないということですか。今の人々は、どれだけ飢え渇いてもイエスさまのところに行くことができないから、その人は救われることができないのですか。

いいえ、決してそうではありません。

まず、天に来ることができないのは、この天を、イエスさまのおられるところを一種類の目に見える場所として理解しているからです。天というのは、空という物理的な空間ではありません。もっと上にある宇宙のどこかでもありません。信仰の先祖たちが神さまを「天におられる」と表現したのは、どこにいても頭の上にある空のように、神さまがおられないところがないことを心から覚えて、そういう神さまを表現していたからです。繰り返しますと、わたしたちがどこにいても空の下にいるように、わたしたちがどこにいても神さまの下にいるという意味します。

 

だから表現を少し変えて、分かりやすくすると、こうなります。

神さまが天におられるのではなく、神さまのおられるところが天であると。

ですからイエスさまは、復活の後、天という未知のとある場所に帰ったのではなく、父なる神さまと共におられるということでしょう。ですからイエスさまが天に昇られて、イエスさまを信じる者は、むしろ、イエスさまに会うことがより簡単になったのです。

 

神さまは目に見えない、そして、イエスさまも天に昇られ、目には見えないようになりました。しかし、神さまがおられるところ、イエスさまがおられるところが天というところであったら、今、礼拝をしているここが天でありますでしょう。

主は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ1820)とおっしゃいました。主の名によって集まるところ、主を求めている信じる者らのところが、天であることです。

 

ですから、渇いている人がイエスさまのところに行くのも可能なわけです。

魂が飢え渇き、イエスさまじゃないと救われられない時、共におられる主を信じているなら、主はその人がいるところを、天にしておられるでしょう。

 

3839節では、そういう人々に、流れ出る生きた水、即ち、聖霊を約束してくださいました。その聖霊は命の水です。人を生かす水です。飢え渇いたものの喉を潤す命の水です。それがその人のところから溢れ出て、周りの人々にも命の道に導くのでしょう。

 

愛する信徒の皆様。

イエスさまは復活の後、弟子たちに「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。聖霊が私たちを天で生きる者、主と共に生きる者、主とつながっている者としてくださるでしょう。主は天に昇られました。私たちも主と共に天を生きる者たちになるのはどうでしょうか。

 

詩編236

「命のある限り・恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り・生涯、そこにとどまるであろう」