【お知らせ】
5月3日礼拝後に行われた役員会によって、コロナウイルス感染拡大による教会の今の体制を1か月伸ばし、6月末日までにすることが決議されました。しかし、早い段階でこのコロナの危機が収束されるなら、元の体制にすぐ戻すことを前提としています。教会員の皆様のご理解、ご協力をお願いいたします。このコロナウイルスが一刻も早く収束されますよう、そして、教会員の皆様がどこにいるとしても主が共におられ、信仰と生活と健康を守ってくださるよう、共に祈りたいと思います。

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。
教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう、お願いいたします。


復活節第6主日礼拝順序

 前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編8110

     讃美p.10  (単独p.14)

讃美歌    333

聖 書  出エジプト記33711

          (旧p.149

ヨハネによる福音書162533

           (p.201)

  祷 

使徒信条 

讃美歌  55 

説 教 「あなたはひとりではない」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   495        

献 金  

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

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説教

聖書個所:旧約 出エジプト33711

     新約 ヨハネ162533
説教題:「あなたはひとりではない」

2526節:「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたは私の名によって願うことになる。私があなたがたのために父に願ってあげよう、とは言わない。」

 

 

「その日には、あなたがたは私の名によって願うことになる。」私たちはもはやここに言われている「その日」という日を生きています。主イエスの名によって、わたしたちは祈っているからです。そして、その祈りは、主が聞いてくださると、わたしたちは信じています。

26節に説明されているように、主の名によって祈ることとは、主がメッセンジャーになってわたしたちの願いを父なる神さまに伝えてくださるということではありません。主の名によって祈るとき、神さまはその祈りを通して私たちと直接交わりをお持ちになるという意味です。

 

 

ところで、主の名によって祈るというのはどういうことでしょうか。

ただどういう願いでも、最後に「主の名によって祈ります。」という言葉を付ければいいということでしょうか。決してそうではありません。「主の名によって祈る」というのは、いろいろな話ができると思いますが、主の名に属している者の祈りではないかなと思われます。

27節】これができるのは、「父ご自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである。」と書いてある通りです。すなわち、(ヨハネ3:16のように)神さまが私たちを愛してくださり、その独り子をお与えになり、その救いの御業によって、また、私たちがその独り子を信じているからであるということです。

 

この主を信じることとは、私たちが世のものではなく、主のものになることを意味します。すなわち、世と神さまが全く違うように、わたしたちも以前とは全く違うものになったことを意味します。たとえ私たちの生活の中にまだ世のものとしてのこと、罪を犯してしまったり、主の御心に相応しくない姿が見えてしまったとしても、この事実は変わりません。主は、主のものとして相応しく、私たちを作りゆくことに違いありません。その主の導きに応えつつ、従いつつどんどん聖化していくのがクリスチャンの私たちです。

ですから、以前とは違う者は、以前とは違う祈りをする者になるのでしょう。すなわち、主の名によって祈るようになるというのは、主の者に変えられた者の祈り、その変えられた存在に相応しい祈りをうることです。

 

 

それでは、以前の祈りと、この変えられた祈りの違いは何でしょうか。それは、方向性にありますでしょう。今日のみ言葉の25節から、主はこう言われました。「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には。。。」以前の祈りが私たち自身の願いが中心になり、それを主に願うことだとしたら、この新しくされた者の祈りは、主の御心を聞くこと、父なる神さまのこころを知っていくことです。すなわち、自分中心から神さまに向かう一方的な方向性ではなく、主に聞く方向性、さらに、主と交わりを持つ両方の方向性を持つことです。

 

 

共に読んだモーセの話には、「主は、人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」と書いてあります。神さまと友のような交わりを持つこと。これが私たち、新しいいのちを得た者らの祈り方であります。

 

主を信じて、聖霊に満たされ、主に聞き、主の御心に相応しく生きる人生を、主は弟子たちに、そして私たちに約束してくださったのであります。救われた者の生き方とは、他のところでもなく、この交わりを通して主に頼りつつ生きる生き方でございます。

 

 

主は、今日の聖書個所の最後に、また、弟子たちの苦難を預言されました。この苦難は、主のものとして生きる人に来る苦難でしょう。(32)主が人々に捨てられ、裏切られて覚えたその孤独の中、イエスさまは神さまとの交わりの中で雄々しく主の御心に従うことができました。そのように、主は私たちに、主のものとして世の中を生きる時に訪れてくる孤独の時、疲れてしまう時、決して一人ではないことを、主が共におられることを忘れてはいけないとおっしゃっているようです。私たちは祈りをもって友なる主と共に歩む者らだと、おっしゃっているようです。

 

そうです。わたしたちは、独りではありません。

マタイ11:28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

愛する信徒の皆様。主に頼り、主に聞き、主に従う者、新しいいのちに相応しいものとして、今週も共に歩みましょう。