新型コロナウイルス感染拡大防止のための記事です。
教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨を見ながら、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう、お願いいたします。

2020年4月26日
復活節第3主日礼拝順序

       

           

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編14519

     讃美p.158  (単独p.162)

讃美歌    208

聖 書  イザヤ書6113

          (旧p.1162

ヨハネによる福音書21114

           (p.211)

  祷           

使徒信条 

讃美歌  390 

説 教 「主だ」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   509        

献 金  

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

-----------
説教の要旨

説教題:「主だ」
 

弟子たちは復活されたイエスさまの話も聞いていたし、直接会ってきた人もいましたが、イエスさまの復活を実感するにはいまいちだったかもしれません。なおさら、何をどうすればいいかも分からなかったと思います。騒がしい心をどうしようもなく、ただただ、今までやってきた昔の仕事をするしかなかったのでしょう。

 

弟子たちは、イエスさまに出会って、弟子になって、自分のやっていたことを捨ててイエスさまに従ってきた人たちです。しかし、今は一度捨てたことをまたやっている弟子たちです。イエスさまが復活されて現れたのに、なんでここで以前のことをまたやり始めたでしょうか。

私たちは「わたしは漁に行く」という言葉から、弟子たちの迷っているこころを読むことができます。

 

「イエスさまが復活された。」

この事実は本当に喜ぶべきことであるはずですが、当時の弟子たちには、この事実が喜ぶばかりのことではなかったようです。弟子たちには、イエスさまを裏切った人もいたし、怖くて逃げてしまったことがあるから、分からないことでもないです。

 

彼らはもうこれ以上、主と共にすることはできないと思っていたかもしれません。自分の過ちで落ち込んで、故郷に戻って昔の仕事をしている弟子たちです。

弟子たちは、主が復活されたことを目撃した者たちでしたが、まだ、彼らのこころは、空っぽのまま、迷っているだけでした。彼らが夜明けまで漁をしても満たせなかったあの網のようです。

 

4~6節】彼らの迷っているこころは、彼らに話をかけている方が何方かも分からないようにしました。しかし、イエスさまは、「船の右側に網を打ちなさい」と言われました。それに従った弟子たちは、夜明けまで満たせなかった彼らの網が、いっぱいになることを経験したのです。

 

確かに、この方は、主イエスキリストでした。主が迷っている彼らに来られたのです。

イエスさまが彼らに来られ、彼らの空っぽのこころは、魚でいっぱいになった網のように、満たされていたことに違いありません。こういうふうに自分たちを満たしてくださる方はイエスさましかいないと、気づいたのでしょう。

 

ペテロは「主だ」という声を聞いた途端、湖に飛び込んで、泳いでイエスさまの方に向かいました。「いっぱいになった網なんかが問題じゃない。自分の以前の罪が問題じゃない。今すぐ主に会わなきゃいけない。とにかく主の近くに行かないと。」と思いながら泳いでいたかもしれません。

 

私たちは、迷う心を持ち、毎日を過ごしています。たまには、愚かで罪を犯してしまう自分が情けなくて、失望するときもあります。主の前に出るのが怖い時もあるのが率直な私たちの姿であります。しかし、主がいるところにまっすぐに向かうことができる勇気は、そこで待っておられる方が、主イエスキリストだからこそではありませんか。罪で怒られるから怖いから逃げてしまうのではなく、どうせ自分は情けないから諦めて離れるのではなく、少し離れてしまったとしても、主にまっすぐに直進して、主と共にしようとすることができるのは、そこに主イエスキリストが待っておられるからです。

 

空っぽの私たちを、満たしてくださる方が主イエスキリストだからです。

迷ってしまう私たちの、行くべきところである方が、主イエスキリストだからです。

 

弟子たちがイエスさまのおられる所に来ると、主は自ら魚とパンの朝の食事を用意しておられました。弟子たちが持ってきた魚も一緒に焼いて、弟子たちと共に食事をしました。

この食事は、彼らの疲れた体を癒す食事であり、主の顔をどう見ればいいか分からない彼らを、慰める食事でありました。

主はこういうふうに、つまづいて、座り込んでいた彼らを立ち上がらせました。そして、彼らが明日を生きるようにしました。聖霊を受けて、今度こそ真に主に従う人にするためでした。

 

愛する信徒の皆さま。

主は、時には迷ってしまう私たちに、「来たれ」と招き、待っておられます。

時には、あわただしい世のことで、疲れてしまって、祈ることも、賛美することも、礼拝することも疲れてしまう私たちに、「来たれ」と招き、待っておられます。

そこに待っておられるのは、愛の豊かな主イエスキリストです。