新型コロナウイルス感染拡大防止のための記事です。
教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨を見ながら、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう、お願いいたします。


2020年4月19日
復活節第2主日礼拝順序

        

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編1181325

     讃美p.130  (単独p.134)

讃美歌    16

聖 書  出エジプト記15111

          (旧p.117

ヨハネによる福音書201931

           (p.210)

  祷           

使徒信条 

讃美歌  329 

説 教 「痕跡」    牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   505        

献 金     

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏


-----------
説教の要旨

説経題:「痕跡」

弟子たちは恐ろしかったです。イエスさまが、死んだと思っていたからです。自分たちの頼るところがなくなったからです。その遺体もどこかに取り去られたから、その不安はよりひどくなったかもしれません。それから彼らは家の戸に鍵をかけて集まっていました。

 

イエスさまは、そういう弟子たちに会いに来られました。

「あなたがたに平和があるように。」

イエスさまはもういないと思い込んでしまい、恐れている彼らに、平和なんか考えられない彼らの間に、主は来られました。そこで、恐れることないと彼らを慰めてくださったのです。あなたがたの主は生きていると、慰めてくださったのです。

 

私たちは非常に不安な時期を過ごしています。の状況がいつ終わるか、終わっても以前の日常に戻れるのか、これからどういうことがまた起きてしまうか分からない、何一つ確かなことのないというとても不安な今の時でございます。しかし、主は、今日の聖書個所を通して、私たちを慰めてくださっているようです。復活された主イエスキリストが私たちの間におられます。

  

今日の聖書個所によると、弟子たちは真ん中に立っているイエスさまを見それました。主を見ていても主だと分からなかったのです。そういう弟子たちにイエスさまは、自分の傷跡を見せてくださいました。それでやっと弟子たちはイエスさまを見て、喜びました。トマスの場合も同じように、イエスさまの傷跡に手を触れてイエスさまを信じるようになりました。

  

弟子たちが、イエスさまであることが分かって、信じるようになったのは、この傷跡を見てからです。この傷跡というのはどういうものでしょうか。

 

イエスさまは復活されました。幽霊のように霊魂があっちこっち現れたりしたのではありません。体をもった完全な姿で復活されたのです。しかし、弟子たちは一目にはイエスさまを見分けられなかったのです。今日の聖書個所の弟子たちも、エマオの途上の弟子たちも、最初にイエスさまに会ったマグダラのマリアも同じようでした。これは、復活されたイエスさまの体が以前の体とは違うことを意味します。パウロがコリントの信徒への手紙1544節において記している「霊の体」かもしれません。

ところで、新しい体をもって復活されたイエスさまが、死からよみがえられた主が、十字架につけられて死なれたその傷跡を残したのはどういうことでしょうか。傷、何らかの欠損を復活された体に残したのはどういうことでしょうか。

  

それは、イエスキリストのその傷跡は、ただ、イエスさまが一度死んでいたという証拠に過ぎないのではなく、イエスさまと弟子たちがつながる痕跡であるからです。なお、イエスさまと私たちがつながる痕跡であるからです。

 

今日の聖書個所でトマスはイエスさまの傷跡に手を触れてこう言いました。

「わが主、わが神」

ただ、復活された神、復活されたイエスさまを見て驚くのではなく、「私の神、私の主」と告白するのです。

 

この傷跡が自分の代わりに受けられた苦難の痕跡であることを分かったからであるでしょう。イエスさまの苦難と死が、自分のためであることを示す痕跡であるからでしょう。私たちに向かう神の愛の痕跡であることを分かったからでしょう。

 

イエスさまは、ローマの人々に引き渡される前、弟子たちの足を洗いながらこう言われました。【ヨハネ13:8】「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」この苦難の痕跡も同じではないでしょうか。

 

主は、この痕跡をとおして、主は私たちの主、私たちは主のものであることを、示しておられるのです。

  

31節のように、主は、無駄な苦難と死を受けられたのではありません。人々が主を信じて、命をうけるためであります。今日の聖書個所は、信じることとは、イエスさまの苦難の痕跡が自分のためであることを知り、イエスさまを自分の神、自分の主として受け入れることだと示しているのでしょう。

信じるものというのは、すなわち、復活された主と関係のある者になることを意味します。イエスさまのその痕跡を通して主と関係のある者になることです。

 

そして、2123節のように、主は、私たちに、行って、主と関係のある者として生きなさいと、命じておられるのかもしれません。聖霊に満たされ、互いに赦しあいながら、愛し合いながら、主が自分の主である人生を生き抜くことを、私たちに命じておられるかもしれません。

 

愛する信徒の皆さま。

私たちは主の苦難の痕跡とかかわりのある者たちです。
この厳しい時期でありますが、主のものとされた私たちは、それにふさわしく、主に委ね、聖霊に満たされ、愛の業に励みながら、祈りつつ共にまいりたいと思います。