日本基督教団 我孫子教会

我孫子教会の礼拝や、色々なお知らせをいたします

5月10日、復活節第5主日礼拝順序と説教

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう、お願いいたします。

2020年5月10日
復活節第5主日礼拝順序

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編10615

     讃美p.117  (単独p.121)

讃美歌    325

聖 書  エゼキエル書362428

          (旧p.1356

ヨハネによる福音書151827

           (p.199)

  祷           

使徒信条 

讃美歌  342 

説 教 「主に選ばれた証人」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   506        

献 金     

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏



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20200510我孫子教会説教

ヨハネ15:18~27

「主に選ばれた証人」

 

今日の聖書個所は、こう始まっています。

「世があなたがたを憎むなら」

ここで「あなたがた」とは主に従う者たちを指します。(154)ブドウの木につながっている枝のような、主の内にとどまっている者たちです。なお、1510節に記されている「わたしの戒めを守る者」たちです。「(17)互いに愛し合いなさい」という戒めを守る者たちです。

 

しかし、そういう人々は、世に憎まれるとおっしゃいました。

キリスト者としてよくやっている者たちが、人々に憎まれることとはいったいどういうことでしょうか。

 

ペトロも、パウロも、他の使徒たちも、主に従っていた素晴らしいキリスト者たちが、結局、殉教の道を歩むのを、わたしたちは十分に知っています。ペトロや使徒たちの後にも、大勢のキリスト者の道は、まさに今日のみ言葉通りです。

 

現代を生きるわたしたちも、ただクリスチャンという理由だけで、憎まれ、いじめられたという話は、まわりから沢山聞くことができます。

 

信仰者として生きるのに、理由もなき、憎まれ、迫害も受け、沢山苦労をして、行きたくないところに行って殺されるとはどういうことでしょうか。主に従うことはむしろ世から褒められるべきではないでしょうか。しかし、主は、これが自然なことだとおっしゃっています。昔々からみ言葉で預言されたとても当然なことだということです。(25)

 

主はおっしゃいます。「そういう時には、世に憎まれる時には、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」

実は、この憎しみは、主が先に受けたものでした。

 

だから大丈夫です。その主の名のゆえに受ける憎しみは、わたしたちが主にちゃんと従っていることに違いないからです。主が、主ご自身が受けた苦難を私たちに少しでも受けらせるほど、私たちの信仰が成長しているということだからです。

 

聖書は、キリスト者の苦難について無数に語っています。そして、そこには、必ず、喜びなさいという勧告がございます。(ローマ書5:312:12、一ペトロ4:13、コロサイ1:24

 

苦難の中で喜びが伴われるのは、わたしたちにはその苦難だけではなく、主から受けている慰めと喜びがあるからです。わたしたちが「世があなたがたを憎む」という言葉に戸惑うようになるのは、世からの憎しみだけを思うからです。そして、世から褒められ、世からうらやましがられることを望む私たちの弱さがあるからです。

キリストにも属して、世にも属したがる私たちがあるからです。

 

しかし、愛する信徒の皆様。

私たちは、主が選び出した者たちです。エゼキエル36:24のように、主がこの世から取って導き出した者たちです。エジプトから出て、もはや主のもとで住まいを決めたのに、エジプトの奴隷の時代を恋しがるイスラエルの人々ではありません。

 

わたしたちは、主を憎む者たちに属していなく、主を愛する者たちに属しています。

これを忘れてはいけません。

 

2627節)そして、わたしたちは、伝えるべきです。

聖霊に満たされ、証人にならないといけません。

主が受けて、使徒たちが受けて、私たちも受けているこの憎しみが、主を知らない人々のためだったら(21節)、その人々のために伝えなければなりません。主の愛を知らない人々が一人も滅びないで、永遠の命を得るように。

 

それは、弱いわたしたちの言葉と知恵だけではできないです。ただただ祈り、主に委ねつつ、聖霊に満たされ、キリスト者としての人生を生き抜くことによってできることです。主と共に歩む幸せなわたしたちの毎日を通して、主から受けている愛を通して、できることです。

 

愛する信徒の皆様。わたしたちは、主に選ばれた証人です。

この旨に相応しく、これからの一週間も主と共に進んでまいりましょう。

 

5月3日、復活節第4主日礼拝の順序と説教の要旨

新型コロナウイルス感染拡大防止のための記事です。
教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨を見ながら、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう、お願いいたします。

2020年5月3日
復活節第4主日礼拝順序


           

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編118112

     讃美p.129  (単独p.133)

讃美歌    358

聖 書  イザヤ書6215

          (旧p.1163

ヨハネによる福音書211525

           (p.211)

  祷           

使徒信条 

讃美歌  323 

説 教 「心は一つ、使命も一つ」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   458        

役員任職式 

献 金

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

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20200503我孫子教会説教

旧約 イザヤ6215

新約 ヨハネ211525

説教題:「心は一つ、使命も一つ」

 

主は、食事の後、ペトロにお聞きになりました。

「わたしを愛しているか?」

この質問は、わたしたちの心の中に大きい響きをもたらします。主からこの質問を受けたら、皆さんはどう答えますでしょうか。

 

ペトロは、「わたしが愛することを、あなたがご存じです。」と答えました。

ヨハネ133638(ペトロの離反の予告)に書かれているペトロの言い方とは全く違います。「あなたのためなら命を捨てます!」とはっきり言っているこの高言とはまったく違うのです。

 

でも、ペトロの心は、おそらく、13章のところも、今の21章のところも主を愛するこころは変わらなかったと思います。しかし、彼は自信がなくなったでしょうか、「主がご存じです。」と言いながら、はっきり答えられなかったです。

こころは変わらなくても、実際にそのこころについていけない自分があるのを分かったからでしょう。(マルコ14:38マタイ26:413度目の質問をうけて、悲しくなったのもこの故でしょう。人間という存在は、このように、簡単ではありません。

 

「あなたはわたしを愛しているか。」

わたしたちは、みな、主を愛するこころは一つでしょう。迷うわたしたちを招き、愛してくださった主の御心を、わたしたちは十分に経験しているからです。迷うわたしたちを主の子として受け入れてくださった方が主だからです。

 

このように、主を愛するこころは確かなのに、わたしたちは、弱いです。今日の聖書個所のペトロのように弱くて誘惑に陥ってしまう罪深い者であることを否定はできません。

 

しかし、主は、知っておられます。そういう私たちを分かってくださいます。

「主がご存じでしょう」というペトロの言葉は、事実です。主は、ペトロが離反するのも知っておられましたが、ペトロの主を愛するこころが変わっていないこともご存じでした。

 

イエスさまは、ペトロの心を十分に知っておられましたが、ペトロにわざわざお聞きになり、彼の自らの口で告白させます。彼の弱さによって、三度も離反したから、三度も言わせたかもしれません。この告白によって、離反の時の罪を乗り越えて、その根本にある弱さを乗り越えて、再び、立ち上がらせるために。

 

わたしたちも、毎回の礼拝の中で、私たちの信仰を告白します。主が下さった信仰なので主はわたしたちの信仰を十分に知っておられますが、また、その信仰を主は私たちに言わせます。私たちは、私たちの信じる信仰を、愛するこころを告白することによって、主との関係を確かめます。わたしたちが、ただの罪びとに過ぎない存在ではないことをまた確かめるのです。

 

 

主は、ペトロのこころを確かめた後、使命を与えてくださいました。

「わたしの羊を飼いなさい。」

この使命はただの命令ではありません。愛の確認の後のみ言葉ですから、これは、この愛の表現として読むべきです。主に向かう愛を表現する方法、それは、私たちに与えられた主の羊を飼うこと、世話をすること、即ち、愛することです。主は、「この人たち」以上に主を愛するその愛をもって、「この人たち」を愛しなさいとおっしゃったのです。(15節)

 

これがわたしたちに与えられた使命です。愛することによって、愛することです。

 

心は一つです。主に対するこころは、「愛」その一つです。

従って、与えられた使命も一つです。「愛すること」です。

 

 

私たちは、大変な時期を過ごしています。

今までの生活とはまったく違う時です。

しかし、こういう時期でも、することは一つでしょう。

主を愛し、主の人々を愛することです。

互いに仕えあうことです。

 

時には、弱い私たちの姿が出てきても、聖霊を求めつつ、主に委ねつつ、一歩一歩踏み出してまいりましょう。

 

4月26日、復活節第3主日礼拝の順序と説教の要旨

新型コロナウイルス感染拡大防止のための記事です。
教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨を見ながら、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう、お願いいたします。

2020年4月26日
復活節第3主日礼拝順序

       

           

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編14519

     讃美p.158  (単独p.162)

讃美歌    208

聖 書  イザヤ書6113

          (旧p.1162

ヨハネによる福音書21114

           (p.211)

  祷           

使徒信条 

讃美歌  390 

説 教 「主だ」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   509        

献 金  

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

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説教の要旨

説教題:「主だ」
 

弟子たちは復活されたイエスさまの話も聞いていたし、直接会ってきた人もいましたが、イエスさまの復活を実感するにはいまいちだったかもしれません。なおさら、何をどうすればいいかも分からなかったと思います。騒がしい心をどうしようもなく、ただただ、今までやってきた昔の仕事をするしかなかったのでしょう。

 

弟子たちは、イエスさまに出会って、弟子になって、自分のやっていたことを捨ててイエスさまに従ってきた人たちです。しかし、今は一度捨てたことをまたやっている弟子たちです。イエスさまが復活されて現れたのに、なんでここで以前のことをまたやり始めたでしょうか。

私たちは「わたしは漁に行く」という言葉から、弟子たちの迷っているこころを読むことができます。

 

「イエスさまが復活された。」

この事実は本当に喜ぶべきことであるはずですが、当時の弟子たちには、この事実が喜ぶばかりのことではなかったようです。弟子たちには、イエスさまを裏切った人もいたし、怖くて逃げてしまったことがあるから、分からないことでもないです。

 

彼らはもうこれ以上、主と共にすることはできないと思っていたかもしれません。自分の過ちで落ち込んで、故郷に戻って昔の仕事をしている弟子たちです。

弟子たちは、主が復活されたことを目撃した者たちでしたが、まだ、彼らのこころは、空っぽのまま、迷っているだけでした。彼らが夜明けまで漁をしても満たせなかったあの網のようです。

 

4~6節】彼らの迷っているこころは、彼らに話をかけている方が何方かも分からないようにしました。しかし、イエスさまは、「船の右側に網を打ちなさい」と言われました。それに従った弟子たちは、夜明けまで満たせなかった彼らの網が、いっぱいになることを経験したのです。

 

確かに、この方は、主イエスキリストでした。主が迷っている彼らに来られたのです。

イエスさまが彼らに来られ、彼らの空っぽのこころは、魚でいっぱいになった網のように、満たされていたことに違いありません。こういうふうに自分たちを満たしてくださる方はイエスさましかいないと、気づいたのでしょう。

 

ペテロは「主だ」という声を聞いた途端、湖に飛び込んで、泳いでイエスさまの方に向かいました。「いっぱいになった網なんかが問題じゃない。自分の以前の罪が問題じゃない。今すぐ主に会わなきゃいけない。とにかく主の近くに行かないと。」と思いながら泳いでいたかもしれません。

 

私たちは、迷う心を持ち、毎日を過ごしています。たまには、愚かで罪を犯してしまう自分が情けなくて、失望するときもあります。主の前に出るのが怖い時もあるのが率直な私たちの姿であります。しかし、主がいるところにまっすぐに向かうことができる勇気は、そこで待っておられる方が、主イエスキリストだからこそではありませんか。罪で怒られるから怖いから逃げてしまうのではなく、どうせ自分は情けないから諦めて離れるのではなく、少し離れてしまったとしても、主にまっすぐに直進して、主と共にしようとすることができるのは、そこに主イエスキリストが待っておられるからです。

 

空っぽの私たちを、満たしてくださる方が主イエスキリストだからです。

迷ってしまう私たちの、行くべきところである方が、主イエスキリストだからです。

 

弟子たちがイエスさまのおられる所に来ると、主は自ら魚とパンの朝の食事を用意しておられました。弟子たちが持ってきた魚も一緒に焼いて、弟子たちと共に食事をしました。

この食事は、彼らの疲れた体を癒す食事であり、主の顔をどう見ればいいか分からない彼らを、慰める食事でありました。

主はこういうふうに、つまづいて、座り込んでいた彼らを立ち上がらせました。そして、彼らが明日を生きるようにしました。聖霊を受けて、今度こそ真に主に従う人にするためでした。

 

愛する信徒の皆さま。

主は、時には迷ってしまう私たちに、「来たれ」と招き、待っておられます。

時には、あわただしい世のことで、疲れてしまって、祈ることも、賛美することも、礼拝することも疲れてしまう私たちに、「来たれ」と招き、待っておられます。

そこに待っておられるのは、愛の豊かな主イエスキリストです。

 

 

 

4月19日、復活節第2主日礼拝の順序

新型コロナウイルス感染拡大防止のための記事です。
教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨を見ながら、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げますよう、お願いいたします。


2020年4月19日
復活節第2主日礼拝順序

        

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編1181325

     讃美p.130  (単独p.134)

讃美歌    16

聖 書  出エジプト記15111

          (旧p.117

ヨハネによる福音書201931

           (p.210)

  祷           

使徒信条 

讃美歌  329 

説 教 「痕跡」    牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   505        

献 金     

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏


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説教の要旨

説経題:「痕跡」

弟子たちは恐ろしかったです。イエスさまが、死んだと思っていたからです。自分たちの頼るところがなくなったからです。その遺体もどこかに取り去られたから、その不安はよりひどくなったかもしれません。それから彼らは家の戸に鍵をかけて集まっていました。

 

イエスさまは、そういう弟子たちに会いに来られました。

「あなたがたに平和があるように。」

イエスさまはもういないと思い込んでしまい、恐れている彼らに、平和なんか考えられない彼らの間に、主は来られました。そこで、恐れることないと彼らを慰めてくださったのです。あなたがたの主は生きていると、慰めてくださったのです。

 

私たちは非常に不安な時期を過ごしています。の状況がいつ終わるか、終わっても以前の日常に戻れるのか、これからどういうことがまた起きてしまうか分からない、何一つ確かなことのないというとても不安な今の時でございます。しかし、主は、今日の聖書個所を通して、私たちを慰めてくださっているようです。復活された主イエスキリストが私たちの間におられます。

  

今日の聖書個所によると、弟子たちは真ん中に立っているイエスさまを見それました。主を見ていても主だと分からなかったのです。そういう弟子たちにイエスさまは、自分の傷跡を見せてくださいました。それでやっと弟子たちはイエスさまを見て、喜びました。トマスの場合も同じように、イエスさまの傷跡に手を触れてイエスさまを信じるようになりました。

  

弟子たちが、イエスさまであることが分かって、信じるようになったのは、この傷跡を見てからです。この傷跡というのはどういうものでしょうか。

 

イエスさまは復活されました。幽霊のように霊魂があっちこっち現れたりしたのではありません。体をもった完全な姿で復活されたのです。しかし、弟子たちは一目にはイエスさまを見分けられなかったのです。今日の聖書個所の弟子たちも、エマオの途上の弟子たちも、最初にイエスさまに会ったマグダラのマリアも同じようでした。これは、復活されたイエスさまの体が以前の体とは違うことを意味します。パウロがコリントの信徒への手紙1544節において記している「霊の体」かもしれません。

ところで、新しい体をもって復活されたイエスさまが、死からよみがえられた主が、十字架につけられて死なれたその傷跡を残したのはどういうことでしょうか。傷、何らかの欠損を復活された体に残したのはどういうことでしょうか。

  

それは、イエスキリストのその傷跡は、ただ、イエスさまが一度死んでいたという証拠に過ぎないのではなく、イエスさまと弟子たちがつながる痕跡であるからです。なお、イエスさまと私たちがつながる痕跡であるからです。

 

今日の聖書個所でトマスはイエスさまの傷跡に手を触れてこう言いました。

「わが主、わが神」

ただ、復活された神、復活されたイエスさまを見て驚くのではなく、「私の神、私の主」と告白するのです。

 

この傷跡が自分の代わりに受けられた苦難の痕跡であることを分かったからであるでしょう。イエスさまの苦難と死が、自分のためであることを示す痕跡であるからでしょう。私たちに向かう神の愛の痕跡であることを分かったからでしょう。

 

イエスさまは、ローマの人々に引き渡される前、弟子たちの足を洗いながらこう言われました。【ヨハネ13:8】「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」この苦難の痕跡も同じではないでしょうか。

 

主は、この痕跡をとおして、主は私たちの主、私たちは主のものであることを、示しておられるのです。

  

31節のように、主は、無駄な苦難と死を受けられたのではありません。人々が主を信じて、命をうけるためであります。今日の聖書個所は、信じることとは、イエスさまの苦難の痕跡が自分のためであることを知り、イエスさまを自分の神、自分の主として受け入れることだと示しているのでしょう。

信じるものというのは、すなわち、復活された主と関係のある者になることを意味します。イエスさまのその痕跡を通して主と関係のある者になることです。

 

そして、2123節のように、主は、私たちに、行って、主と関係のある者として生きなさいと、命じておられるのかもしれません。聖霊に満たされ、互いに赦しあいながら、愛し合いながら、主が自分の主である人生を生き抜くことを、私たちに命じておられるかもしれません。

 

愛する信徒の皆さま。

私たちは主の苦難の痕跡とかかわりのある者たちです。
この厳しい時期でありますが、主のものとされた私たちは、それにふさわしく、主に委ね、聖霊に満たされ、愛の業に励みながら、祈りつつ共にまいりたいと思います。

皆様へのお知らせ


我孫子教会は、12日に臨時役員会を開き、新型コロナウイルス感染対抗策について、次のように決めましたので皆様にお知らせいたします。

1、平日の集会について。祈祷会は、しばらく休止とします。
2、日曜日の礼拝以外の集会について。婦人会、男性の会、子どもの教会は休止になります。
3、主日礼拝について。 教団のガイドラインにも示されているように、礼拝を中止することは教会として出来ないことであるが、礼拝が感染の元になる恐れも多いことも確かです。このため、①礼拝の時間を短くします(讃美歌は1番のみ。説教は15分ぐらい)。②礼拝への出席は各自の判断に任せます。少しでも体調が悪い時は、ご遠慮ください。③出席出来ない方のためには、このホームページに礼拝順序と説教の要旨を毎週土曜日に牧師が載せます。それによって共に礼拝を守られるようにいたします。④この対抗策期間はまず、5月いっぱいまでにし、コロナウイルスの状況が早めに収まれば普段通りに戻しますが、長くなる場合はまた検討いたします。⑤尚、聖餐式は致しません。⑥奏楽はヒムプレイヤーにて行います。
4、教会総会について。19日(日)礼拝後に教会総会があります。食事なしで礼拝直後に始めます。讃美歌は歌いません。報告のための発表は省略して承認が必要な議案だけを短く行います。定足数に満たない場合は延期にします。

◆マスクを着用してください。受付にアルコール消毒綿を置いてあります。礼拝前には窓を開けて換気をよくしています。


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