日本基督教団 我孫子教会

我孫子教会の礼拝や、色々なお知らせをいたします

2020年8月9日聖霊降臨節第11主日礼拝

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。コロナ禍の中、教会に来れない方々のため、礼拝実況をYouTubeで配信いたします。この礼拝順序とYouTubeライブ映像を通して、それぞれの場所でも、共に礼拝を捧げることができますようお願いいたします。

次のリンクをクリックすると、礼拝実況の動画ページにつながります。。


聖霊降臨節第11主日

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編782339

     讃美p.85  (単独p.89)

讃美歌    6

聖 書  箴言9111

            (旧p.1002

    ヨハネによる福音書64159

           (p.176)

  祷 

使徒信条 93-4 A)賛美歌のp.146

讃美歌  54

説 教 「天から降ってきたパン」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   56        

献 金  

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

 後 奏

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20200809我孫子教会説教

旧約 箴言 9111

新約 ヨハネ 64159

「天から降ってきたパン」

 

イエス様は天から降ってきたパンです。以前の説教で、キリスト者という者は一つの食卓を囲んで命のパンを共に分かち合う者たちだと申し上げました。その命のパンというのは私たちの主イエスキリストを指します。私たちが食べ物を食べて自分のエネルギーにして生きるように、イエスさまを通して生きる力を得られるということです。生きる力だけじゃなく、永遠の命を得て新しい存在になって新しい人生を歩む者になることです。イエスさまご自身の命を私たちの命にしてくださり、その頂いた命に相応しい者としてくださる主イエスの恵みを表現した言葉です。

 

ところで、聖書の中では「パン」という言葉で記されていますが、私たちのようなお米文化の人たちには若干ピンとこない言葉かもしれません。「パン」と言ったら私たちには主食の感覚でなく、たまたま特別に食べるものという感覚です。なので「命のパン」、「天から降ってきたパン」と言われたら、食べたら永遠の命を得られる幻の薬みたいなものというイメージになりやすいです。しかし、聖書の中の人物はパンを主食としていますので、この言葉は「命のご飯」とかの翻訳がより分かりやすいかもしれません。

 

ご飯というのは毎日たべるものです。特別な時に思い切って食べるそういう食べ物ではありません。しかし、ご飯から離れてみたらすぐわかりますでしょう。ご飯が私たちにどれほど大事なものであったかを。すなわち、私たちが「ご飯」というものを日常的に食べるように、「天から降ってきた命を与えるパン」であるイエスキリストも、私たちの日常でなければなりません。人々にご自身のことを「パン」だと譬えてくださったのは、私たちと「ご飯」のように身近な関係になりたい、いや、ならなければならないという意味に他なりませんでしょう。

 

ご存じのように、イエス様はベツレヘムで生まれました。ベツレヘムという言葉の意味は、「パンの家」、つまり「パン屋」です。天から降ってきたパン、命のパンがイスラエルのパン屋のベツレヘムに生まれたというクリスマスの出来事は面白いことでしょう。イエス様がこの世に来られる前には、いろいろなパンがあってもすべてが結局死んでしまうパンだけだったパン屋に、全く新しいパンが出てきたのです。おいしそうに見えたり格好よく見えるが結局真の生き方はなかったこの世に、人を真の真理の道に導く命のパンができたのです。

 

しかし、今日の聖書個所でイエス様の言葉を聞いていた人々のように、人々はイエス様が分からなかったのです。パン屋にパンは多いし、命のパンに気づけず、他のパンに惑わされてしまうのが人間の弱さ、愚かさであるからです。真のパンか否か、主の御心か否か弁えることが、私たちにはとても難しいことです。では何が必要でしょうか。主の御心通りに生きるため、新しい命を得たものとして相応しく生きるためには、主の御心を弁える知恵が必要でしょう。

 

この知恵はただの賢さ、頭のいいことを意味しません。今日のみ言葉のように、神から来たものにならなければなりません。神様に教えられるものにならなければなりません。(45節)

 

今日の箴言のみ言葉では「主を畏れることは知恵の始め、聖なる方を知ることは分別の始め」と記されています。

 

主を畏れることとはどういうことでしょうか。主を無視しないことではないでしょうか。「いつも主が共におられる」という言葉を私たちは信じています。この言葉のようにいつも共におられる主を無視しなく、忘れることなく、主に集中する新しい視野を持つことに違いありません。

 

それでは、「主を知ること」とは何でしょうか。いつも共に歩んでいる方と親しくなることではないでしょうか。どんどん互いに関心を深めて親しくなって、言わなくても分かってしまうそういう親しみを持つようになったら、み言葉の中、生活のあわただしさの中でも主の御心を弁えることができて、その方向に向かうことができる、ということではありませんか。

 

主を畏れ、主と親しくなりましょう。毎日、毎瞬間、与えられる命のパンを味わいましょう。すべての瞬間に共におられる主に集中し、主がすべての出来事の中でお働きになるのをしっかり目にしましょう。主が共におられるという言葉が皆様に恵みであるなら、その恵みをいつも満喫すること、楽しむことも必要ではありませんか。そうする中で、いつのまにか、知恵は成長され、主の御心をよく分かり、従う者になっていると、共に信じて進みたいと思います。

 

祈りましょう。

2020年8月2日平和聖日礼拝

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。コロナ禍の中、教会に来れない方々のため、礼拝実況をYouTubeで配信始めます。この礼拝順序とYouTubeライブ映像を通して、それぞれの場所で、共に礼拝を捧げますようお願いいたします。

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平和聖日礼拝

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編68111

     讃美p.71  (単独p.75)

讃美歌    17

聖 書  列王記上17816

            (旧p.561

    ヨハネによる福音書62227

           (p.175)

  祷 

使徒信条 93-4 A)賛美歌のp.146

讃美歌  510

説 教 「命の糧」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   561        

献 金   

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏


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金南救牧師就任式

2020年7月26日、礼拝後に金南救牧師の就任式が行われました。
朝から雨が降ったり、急に太陽が出たり、とても蒸し暑い日でした。


就任式のお花

午後2時から就任式が行われました。千葉支区長で千葉本町教会の主任担任教師、岸憲秀牧師が司式をしてくださいました。

◆牧師就任式

前奏
讃美歌21  98番
序詞
聖書  ヨハネによる福音書10章11~18節
祈祷
誓約  牧師 金南救
勧告
教会員の誓約 我孫子教会員
祈祷
説教
祈祷
讃美歌21  401番
祝祷
後奏
金牧師の誓約
誓約です。

岸牧師の司式
岸牧師の説教です。

30分弱で式は終わり10分の休憩の後、祝会が始まりました。
コロナ禍の中ですが、大勢のお客様がいらして下さいました。


各牧師

師弟

岸牧師
 千葉本町教会 岸憲秀牧師

祝会

東牧師
流山教会 東省吾牧師

高田牧師
天王台伝道所 高田和彦牧師

春原牧師
柏教会 春原禎光牧師

近藤牧師
近藤国親牧師(我孫子教会前牧師)

金牧師
金南救牧師のお礼の挨拶

お世話になった千葉本町教会の会員が大勢いらして祝福してくださいました。
頂いた祝辞、祝電の披露もありました。金牧師の就任を祝して韓国基督教大韓監理会より祈念の品を頂戴しました。
最後に金牧師が皆様にお礼の挨拶をしました。讃美歌21の18番を讃美し、星野芳江さんの閉会の祈りで、午後3時過ぎに幕を閉じました。
無事に終わり感謝です。



7月26日聖霊降臨節第9主日礼拝順序と説教

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所で、共に礼拝を捧げますようお願いいたします。

聖霊降臨節第9主日礼拝

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編5419

     讃美p.58  (単独p.62)

讃美歌    204

聖 書  イザヤ書43113

            (旧p.1130

    ヨハネによる福音書61621

           (p.174)

  祷 

使徒信条 93-4 A)賛美歌のp.146

讃美歌  390

説 教 「わたしだ。恐れることはない。」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   448        

献 金    

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

  後 奏

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聖書個所:約 イザヤ42:113

     新約 ヨハネ61621

説教題:「わたしだ。恐れることはない。」

 

弟子たちはティベリアス湖を渡ってカファルナウムに行かねばならなかったです。このティベリアス湖というのはガリラヤ湖のティベリアス地方の方を指します。すなわち、ティベリアス地方からカファルナウムまでガリラヤ湖を渡って行くことです。今日の聖書箇所はこの途中の出来事について語っています。

 

今日の聖書箇所の直前のところでは、即ちティベリアス地方では、有名な五つのパンと二匹の魚の奇跡が起こります。人々は五つのパンと二匹の魚をもって無数の人々を食べさせた主を目撃しました。しかし、人々はこの奇跡の本当の意味を分かることができなかったです。人々は、ただ目の前で起こった食べ物の奇跡に夢中になりました。人々はこういう素晴らしい奇跡を起こすイエスさまを無理やりに自分たちの王にしようとしました。この群衆たちにイエスさまはただ自分たちの欲望を叶えてくれる魔法使いに見えたのでしょうか。彼らにイエスさまが本当にどなたなのか見えなかったのです。

 

また、今日の聖書箇所の次にはカファルナウムに舞台が変わります。そこでイエスさまは奇跡の意味、奇跡が示していること、即ちイエスさまのこと、天から降ってこられた真の命のパンであるイエスさまについての話がつづきます。5000人以上が経験した奇跡ですが、その奇跡が示していた意味が語られる舞台でございます。

 

人々がただ自分の欲望だけを求めていた舞台から、イエスさまの本当のことが語られる新しい舞台への旅路が今日の聖書箇所でございます。

 

 

ガリラヤ湖はすごく大きい湖です。今も、長さが20キロメトル、幅が10キロメトルを超える湖です。イエスさまの時代には今より大きい湖だったそうです。そういう広い湖を夜中に漕いで渡らないといけなかったのです。しかしまだイエスさまは共におられなかったです。夜中で、さらに嵐が来ている状態ですが、弟子たちは出発をしました。

 

彼らは一所懸命、一所懸命、漕いで船を動かせました。そうしている最中、嵐が彼らを襲いました。嵐が襲っても目標は変わりませんでした。つらくても、死にそうでも、頑張って頑張って、ろを漕ぎました。弟子たちはきっと怖かったでしょう。夜中、嵐の真ん中での恐怖は言うまでもないと思います。それどころか、遠いところから幽霊みたいな何かが見えて、自分たちに近づいていました。彼らは大変な恐怖に囲まれていたでしょう。

 

そういたところ、イエスさまが水の上を歩いて彼らのいるところに来られました。イエスさまは恐れている弟子たちに「わたした。恐れることはない」とおっしゃいました。そして弟子たちは船にイエスさまを迎え入れようとしました。そこで突然、話は終わります。

 

弟子たちが4キロメトルほど、頑張ってきた時間は、それはどれだけ長くてつらい時間だったでしょう。目標まではまだまだ半分も至っていない、嵐は沈める気配もない、。。彼らの4キロメトルがどれだけ長かったのか想像できます。

 

しかし、不思議なことです。イエスさまが彼らにこられたとき、そして彼らがイエス様を迎え入れようとした瞬間、「まもなく」船は目的地にたどり着きました。

 

突然、話は終わってしまいました。瞬間移動とかの奇跡の話ではありません。この話のほとんどはイエス様が彼らと共におられる前、弟子たちの苦しんでいた話になっています。しかし、最後の一節で話は終わってしまいます。イエスさまが彼らに来られた後の時間は、イエスさまが来る前の時間とは全く違う流れになったからです。

 

皆さんは恋人と一緒にいるとき、それとも、友達と楽しい時を過ごすと、時間が早すぎるよなと思われた時があるでしょう。逆に、つらい時の時間はなんと長いか言うまでもないです。

 

イエスさまが弟子たちに来られた時、時間は、まるで、恋人と一緒にいる一時のように、友達との楽しい時のように、イエスさまのいなかった苦しい時間とは全く違うように、流れ始まめたのです。イエスさまと共にいることとはこういうことです。

 

私たちの人生も同じでしょう。イエスさまと共に歩まない人生とイエスさまと共に歩む人生は根本的に違います。怖い時、つらい時に、イエスさまが私たちに話をかけてくださることを想像してみましょう。「わたしだ」というイエス様の声がどれほど救いになるかは言うまでもないでしょう。

 

今日の聖書箇所ではイエスさまが来られて嵐を叱ったり沈めたり、弟子に水の上を歩かせたりはしません。イエスさまが弟子たちの所に来られても彼らはまだ嵐の中でした。目的地はまだ半分以上残っています。しかし、変わったのはイエスさまと共に嵐の中にいるということです。それで、今までの旅路は変わり、イエスさまと共にする旅路になります。

 

神さまを信じるようになったとしても、突然お金持ちになったり、毎日奇跡が起こったりはしません。人生の思い煩いがなくなるのもないです。しかし、その人生は、表に見える状況は、同じようでも、その真実と意味は全く違うものになります。

 

最初はイエスさまのために頑張ろうと思って、一所懸命頑張ってきたのに、とある瞬間、自分は一人で頑張っているような孤独を感じてしまい、いやになるときも私たちにはあります。他方、世の中を生きるのにとてもとても怖い時も私たちに訪ねてくる時があります。イエスさまが本当に共におられるかどうか分からなくなる時も多いのが率直なことです。しかし確かなことは、その嵐の中でも、「わたしだ。恐れることはない」と、共に行こうとおっしゃる主がおられることです。

 

我々はそういうイエスさまを受け入れ、全く新しい人生のスタートラインに立ち、それから、イエスさまと共に一歩一歩、歩んでいます。

 

弟子たちが「間もなく」目的地にたどり着いたように、嵐の中でもイエスさまとの楽しい旅路になったように、主が共におられるなら、世の中の苦しみの中でも憩いのみぎわも青草の野原もあり、間もなく目的地に着いたと思うほどの幸福があります。

 

愛する信徒の皆さま、私たちはイエスと共に歩む人々でございます。この最高の幸福をいつも味わう人々でありたいと願い、感謝して共に祈りましょう。

7月19日聖霊降臨節第7主日礼拝順序と説教

次は、礼拝に出席できない方々のための記事です。教会に来れない方々は、この礼拝順序と説教の要旨に従い、礼拝が行われる同じ時間に合わせて、それぞれの場所で、共に礼拝を捧げますようお願いいたします。

聖霊降臨節第8主日礼拝

前 奏 

招 詞  

讃美歌    83

主の祈り  (93-5 A) 讃美歌のp.148

詩編交読 詩編 詩編96713

     讃美p.106  (単独p.110)

讃美歌    155

聖 書  ミカ書7:1220

            (旧p.1458

      使徒言行録241021

           (p.262)

  祷 

使徒信条 93-4 A)賛美歌のp.146

讃美歌  482

説 教 「復活の時」

                          牧師 金南救

祈 祷

讃美歌   471        

献 金     橋詰貴美子

報 告

頌 栄     29

祝 祷        

後 奏

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ミカ71220

使徒24:1021

説教題「復活の時」

今日のパウロはフェリクスというエルサレムの総督の前で裁判を受けています。パウロは自分のことを弁論していますが、それはイエスキリストについて、そして復活についての証言、証でありました。

パウロがこの裁判所に立っているは、彼を殺そうとするユダヤ人たちがエルサレムに入った彼を訴えたからでした。パウロがローマの市民権を持っていなかったら今総督の前に立つことすらできず殺されたでしょうが、彼はローマの市民権を持っていたため、総督の前で自分を弁論することができ、なにより今、総督の前でイエスキリストと復活について、即ち、福音を宣べ伝えていることになりました。死ぬ危機が世界に福音を宣べ伝える機会になったのはなんと素晴らしい神様のお働きでしょう。

 

ところで、この場面は、イエス様の裁判を思い出させます。罪のないのに、群衆騒動と神冒涜のことでユダヤ人によって訴えられ、殺される危機に遭ってしまったことがとても似ているからです。先週の礼拝で、弟子(キリスト者)という者はイエス様の歩んだ道に従って歩む者であると説教いたしました。その道は人々を生き返らせる者たちだと申し上げました。今日のパウロもそうでした。今日の聖書個所はイエスさまの最後の苦難の道を彼が同じように歩んでいる場面だと言えますでしょう。その故、彼は総督の目の前で、福音を、永遠の命を宣べ伝えることができました。

 

パウロはイスラエルに入る直前、カイサリアで預言者アガボに出会い、彼の預言を聞きます。【(使徒21:1011幾日(いくにち)か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。そして、わたしたちのところに来て、パウロの(おび)を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」】パウロがエルサレムに入ったら捕まってしまい、殺されるという預言でした。この内容はそこにいたすべての信者たちが予想していたことであり、人々はエルサレムに行かないように、パウロに泣きながら頼みました。苦難を控えたいと思うのは人間の普通の反応だと思われます。しかし、何故彼は自分がイエスさまでもないのに、苦難の道を選んだのでしょうか。今日の聖書個所以外にも、パウロは無数の危機に遭いがら伝道していきました。どれ一つ簡単な道はなかったのです。パウロは何故、自分がイエス様でもないのにこういう道を歩んできたのでしょうか。それは、その苦難の道に神の御心があったからです。イエスさまがその道を先に歩んだからです。そこに神の御心があるからです。

 

それどころか、彼が苦難の道を選んだのは、今楽に暮らすことより苦難の道を喜んで受け入れたのは、今の苦難を喜んで受け入れられる永遠の喜びと希望を見ていたからです。それは復活の希望でございます。パウロはその復活を、見つめながらイエス様の後をついていきました。そして、共に復活という希望を見あげながら一緒にイエスキリストの道を歩もうと宣べ伝えてきたのです。

 

繰り返しますが、イエスの道に従っていくのがキリスト者という者の道であると申し上げました。しかし、この道が決して簡単ではございません。聖書の中のイエス様の教えや弟子たちの人生などをよく読んでみてください。イエス様を従うことがどれほど難しい苦難の道であるかすぐわかるでしょう。わたしたちもキリスト者であれば、今日の聖書個所のパウロのように普通の人間としては考えられない道を選ばなければならない時が来るのです。そして、損しながら、自分が頑張ってきて手に入れたと思う者を手放さなければならない時が来るのです。

 

しかしパウロはこう言います。

【(フィリピ379)しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失(そんしつ)と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切(いっさい)を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを(ちり)あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。】

 

パルロはローマの市民権があり、エリートの教育を受け、社会的にいわゆる成功の道を歩むことができる人でした。しかし彼はそれをすべて塵あくたとして見なしていると言います。イエス様を知ること、(した)しくなること、共に歩むこと、そうして復活の希望を抱いて生きることが、何より良いことで、楽しいことであると分かっているからです。だから彼はその苦難の道をしのびつつ、いや喜びつつ歩むことができたのでしょう。

 

私たちも弟子なら、苦難の道を歩むようになるかもしれません。しかし、恐れる必要はありません。主イエスはおっしゃいました。【(マタイ11:2830)疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和(にゅうわ)謙遜(けんそん)な者だから、わたしの(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」】主の道を歩むとき、そのくびきが私たちの目にはとても重く見えても、そのくびきは負いやすく、荷は軽くなります。何故なら主が共にそのくびきと重荷を負ってくださるからです。パウロも、ペトロも、2000年にわたった他の無数の弟子たちも、苦難の道に見えるが、実は軽くて喜び満ちた道を歩んでいました。

 

今どきの世の中は、生きていることだけで、つらい時だと言われています。しかし、天に国籍を持って主と共に歩むキリスト者の道は、自分も聖化されつつ、人々を、そしてこの世を変えていく道です。主がご自身の人々を通してお働きになるからです。だから主の中にとどまりましょう。主の道に従ってまいりましょう。苦難の道に見えてもその道は主と共に働く喜びが、そしてその先には復活の永遠の命があるのです。

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